2017年10月27日

10月27日は「ムード歌謡の王様」フランク永井の命日

執筆者:鈴木啓之

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待ち合わせの名所となっている有楽町マリオンの大きなからくり時計のすぐ下、植え込みのところに、「有楽町で逢いましょう」の歌碑があるのをご存知であろうか。歌唱者のフランク永井が亡くなった2008年に建立されたものである。東京のご当地ソングを代表する存在のこの曲が生まれたのは1957年。マリオンの場所に建っていた日劇こと日本劇場でのロカビリー公演が爆発的な人気を呼んだのはその翌年のことだった。そんな若者の音楽が隆盛を極めていた一方で、フランク永井はレーベルメイトだった和田弘とマヒナスターズや松尾和子らと共に続々とヒットを連ねて、大人向けのムード歌謡の流行を牽引した。魅惑の低音で一世を風靡した大歌手、フランク永井がこの世を去って早9年。10月27日は命日にあたる。


1955年に「恋人よわれに帰れ」でデビューしたフランク永井は初期のポピュラーソングからすぐにオリジナルの歌謡曲へと移行するもなかなかヒットに恵まれず、実に21枚目のシングルにあたる「有楽町で逢いましょう」のヒットで遂にブレイクに至った。1957年5月に有楽町駅前のそごうデパートがオープンした際のキャッチフレーズ“有楽町で逢いましょう”はそのまま歌番組のタイトルとなり、秋にレコードが出されて大ヒットとなったのだった。雑誌「平凡」で小説が連載され、翌年には大映で映画化されてフランク永井も出演した。前後に出された「夜霧の第二国道」「街角のギター」「西銀座駅前」などもヒットさせて、フランク永井は一躍スターダムにのし上がる。


ヒット曲の多くは、ビクター専属の作曲家、吉田正の作品だった。鶴田浩二を筆頭に、マヒナスターズ、松尾和子、この後に出てくる橋幸夫、吉永小百合、三田明らもみな吉田に師事したことで、歌謡界における“吉田学校”と呼ばれた。1959年に始まった日本レコード大賞は、第1回こそ東芝の水原弘が「黒い花びら」で受賞したが、第2回は松尾和子、和田弘とマヒナスターズ「誰よりも君を愛す」、第3回がフランク永井「君恋し」、第4回が橋幸夫と吉永小百合「いつでも夢を」と3年連続でビクターが大賞を受賞していることからもレーベルの当時の勢いが窺える。ちなみにフランクは第1回の時、渡久地政信作曲による「夜霧に消えたチャコ」で歌唱賞と作曲賞を受賞した。吉田作品の数には及ばないまでも、この時期のレパートリーには渡久地の作品も多く見られる。


デュエットソングの定番として名高い「東京ナイト・クラブ」は1959年夏に松尾和子との共唱で出され、松尾がマヒナと歌った「グッド・ナイト」のB面曲ながら共にヒットした。これがデビュー盤となった松尾は実に華々しいスタートを切ったことになる。この2年後に出された石原裕次郎と牧村旬子の「銀座の恋の物語」は「東京ナイト・クラブ」に倣って作られたそうだ。改めてディスコグラフィーを見てみると、1958年からの3年間は、毎年20枚前後に及ぶシングル盤を発売しているのに驚かされる。当時はB面が別歌手のレコードも少なくなかったとはいえ、驚異的なペースである。少しペースダウンした1961年以降も年間10枚以上、それが1967年頃まで続くのだから凄い。1961年の第3回日本レコード大賞を獲得したフランク永井の「君恋し」は、1929年に二村定一がヒットさせた流行歌のカヴァーであったが、当時のリバイバルブームに乗って30年の時を隔てたヒットとなった。寺岡真三の軽快なアレンジに乗せて歌われるフランクのヴォーカルが絶品で、オリジナルとは雰囲気を異にする全く新しい作品に生まれ変わっている。以降も「霧子のタンゴ」「逢いたくて」「大阪ぐらし」など毎年ヒットを連ねて歌謡界のトップに君臨し続けた。


キャリアでは後年の代表作となる「おまえに」が大ヒットしたのは1977年だが、曲が最初に発表されたのは1966年、シングル「大阪ろまん」のB面曲としてだった。その後1972年にA面として再リリースされ、有線やカラオケで徐々に人気を得て、1977年の新録音盤が大きなヒットへと至る。岩谷時子の詞は、吉田正夫妻をイメージして書いたものだと言われ、夫人に対する吉田の感謝の念が込められた詞とおぼしい。フランクも恩師のことが歌われたこの作品を大切にして長く歌い続けたことがよく解かる。もちろん自分の妻にも重ね合わせて歌われたであろうことは想像に難くない。1982年に山下達郎が提供した「WOMAN」は評判も売上げも上々で、その次の「マホガニーのカウンター」も小椋佳の作と新しいチャレンジが見られた。1985年に自殺未遂を起こして歌手生命を絶たれてしまったわけだが、もっと長く歌い続けていたらさらなる展開があっただろうと思うと惜しまれてならない。


しかしながら遺された作品は厖大な数に上り、それらはもっと広く聴かれ、もっと高い評価を得るべき歌謡曲の貴重な財産である。フランク永井が日本最高のムード歌謡の歌い手であることは、未来永劫変わることのない、揺るぎない事実なのである。

※吉田正の「吉」は「土に口」ですが、システムの都合で、「吉」とさせていただきます。

「有楽町で逢いましょう」「夜霧に消えたチャコ」「東京ナイト・クラブ」「WOMAN」撮影協力:鈴木啓之


≪著者略歴≫

鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。

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