2017年06月27日
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2017年06月27日
6月27日はフィルモア・イーストが閉鎖された日(71年)となるが、世界中にその名を轟かした「フィルモア」というライヴの殿堂がサンフランシスコにあったことは良く知られている。フィルモアは元々はボールルーム(ダンスホール、社交ダンスの舞踏場)だった所をロックのライヴ・ホールにリニューアルしたもので、独自のサイケデリック・アートを生み出し、サポートしたという点において重要な存在だったと思う。
サンフランシスコのボールルーム・シーンが始まったのは65年秋のこと。当時、パイン・ストリートに拠を構えていたチェット・ヘルムズ(ジャニス・ジョプリンのマネージャーとして知られる)率いるコミュニティ“ファミリー・ドッグ”と名乗るアート集団が、「アヴァロン・ボールルーム」(Sutter St.&Van Ness Ave.)をロックの常打ちホールとして次々とコンサート・イヴェントを打ち始めたのが皮切りだった。
同じ頃、“マイム・トゥループ”と名乗る演劇集団をマネージメントしていたビル・グレアムは、65年11月に「フィルモア・ボールルーム」(Geary St.&Filmore St.)で、アレン・ギンズバーグ、ローレンス・ファリンゲッティ、ジェファスン・エアプレンらを迎えて最初のコンサートを行った。以後、ビルはフィルモア・ボールルームで定期的にコンサートを企画するようになっていくのだが、やがてボールルームは“フィルモア・オーディトリアム”と改名される。つまり、これが「フィルモア」の始まりであった。
この「フィルモア・オーディトリアム」(キャパ2000)は68年7月はじめまでシスコの常打ちホールとして使われていたが、次第に観客が入り切らなくなったため、ビルは新たに「カルーセル・ボールルーム」(Market St.& Van Ness Ave.)を借り入れ「フィルモア・ウエスト」(キャパ5000)としてオープンさせ、同時にニューヨークにも進出して「フィルモア・イースト」を誕生させ、ここから東西フィルモア時代が始まっている。フィルモアの特徴は、音楽的な偏見を取り払い、ジャンルを超越して聴かせられる機会を提供したいというビルの絶妙なブッキングにある。例えば、ザ・フーとキャノンボール・アダレイという対バン、マザーズとB.B.キングという対バンなどもその一つ。ブルース、カントリー、ジャズなどのルーツ、トラッド系とロック系との組み合わせや、イギリス勢とアメリカ勢を組み合わせるなど、その意図的なブッキングはおよそ考えられないほど意表を突いたものだった。
が、フィルモアの功績はそれだけではない。一つには告知用のサイケデリックなポスター・アートを生み出したことが挙げられる。作家で言えば、ウエス・ウィルソン(フィルモアやアヴァロンのポスターなど)、リック・グリフィン(フィルモアのポスター、デッドのカヴァー・アートなど)、スタンリー・マウス=アルトン・ケリー(アヴァロンのポスター、ジャーニーのカヴァー・アートなど)、ヴィクター・モスコッソ(フィルモアのポスター、スティーヴ・ミラーのカヴァー・アートなど)、デヴィッド・シンガー(フィルモア・ラスト・デイズなど)といったアーティストが、高度に凝った手法を競い合った。具体的には、蛍光カラー的なカラフルな色使い、サイケ文字と呼ばれた手作りのユニーク且つ難解なフォント、ペイズリー柄、更には鏡文字(Mirror Writing)を使ったものなど、実に様々なサイケデリック・アートが誕生している。
そしてもう一つ忘れてならないものにライト・ショー(照明)がある。ストロボ、ブラック・ライト、そしてオーヴァー・ヘッド(ガラスで挟んだ水と油をカラー・スライドの上でリズムに合わせて動かし、それをステージ・バックに投影する)など、これまでになかった照明スタイルを生み出し、“Joe's Light”、“Heavy Water”、“Brotherhood Of Light”など多数のライティング・チームを輩出、後のコンサート照明の基礎を築き上げたことも記しておきたい。
そのフィルモアも71年6月27日にまずフィルモア・イーストが、次いで7月4日にはフィルモア・ウエストが閉鎖され、60sロックの象徴でもあった“フィルモア時代”は終焉を迎えたのだった。このフィルモア・クローズの一因ともなったギャラ高騰の背景には、ウッドストック成功以降のロックのビジネス化が挙げられる。マネージメントはバンド付きの個人マネージャーから、マネージメント・オフィス、ブッキング・エージェンシーへと移行され、複数の人気アーティストを抱えるマネージメント会社が常識という時代に突入。一つのアーティストに多くのスタッフが関わり、ツアーともなればライティングからPAなどのクルーも一緒に移動する。関わる人手が増えれば経費もかかり、それは必然的にギャラに跳ね返ってくる。もう、かつてのようにマネージャー、少数のローディとアーティストが楽器車と共に移動するような時代は遠く過ぎ去ったのである。
≪著者略歴≫
増渕英紀(ますぶち・ひでき):音楽評論家、コラムニスト。東京都出身。メジャーには目もくれず、ひたすら日本では過少評価されているマイナーな存在の海外アーティストや民族音楽、日本のアンダーグラウンド・シーンやインディー系のアーティストにスポットを当てて来た。
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