2019年07月31日

本日7月31日はゲイリー・ルイス&プレイボーイズのゲイリー・ルイスの誕生日~デビュー曲に大物ミュージシャンが関わったワケ

執筆者:丸芽志悟

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宇多田ヒカルやONE OK ROCKのTakaは言うに及ばず、ビートルズの各メンバーの子供も最低一人はアーティスト・デビューしていたり、ショウビズ界の「カエルの子はカエル」現象が決して珍しいことではなくなっている昨今。ポップ・ミュージック界に於ける「二世タレント」のルーツを辿ってみれば、行きつく先は1960年代中期のハリウッドだ。「オジーとハリエット」という、ほぼリアリティ同然の家族バラエティ番組から巣立ったリック・ネルソンという先例はあったものの、本日の主役ゲイリー・ルイスの出世物語は全く違うタイプのドラマだった。当時の米国ポップスが置かれていた事情をまず直視してみよう。


ゲイリー・ルイスは1945年の本日7月31日、米国ニュージャージー州にて生まれている。父親はディーン・マーティンと共に出演した「底抜け」コメディ映画シリーズで知られ、後年には「24時間テレビ」等に多大な影響を与えたチャリティ番組「テレソン」の創始者となったジェリー・ルイス。典型的なハリウッドのお坊ちゃんタイプとして育ちながら、64年米国を襲ったビートルズ旋風に感化されザ・プレイボーイズを結成。ディズニーランドの専属バンドとなり、当時のTOP40ヒットのカヴァーを中心に演奏していた彼らの噂を、一人の男が聞きつける。


60年代初期、ボビー・ヴィーやジーン・マクダニエルズを手がけヒットを連発していた敏腕プロデューサー、スナッフ・ギャレット。折しも、ビートルズ旋風のせいで魔力を失ってしまった米国ポップス職人一団の中に、彼も押し込まれてしまっていた。果たして打開策はあるのか? そんな時、彼とジェリーの共通の友人であるルー・ブラウンから、「ジェリーの息子のバンドがディズニーランドでプレイしているよ」との情報をゲットする。「セレブの息子?これはいい商売になるかも!」と、彼のアンテナは直立した。早速ディズニーランドに赴きバンドをスカウト、ゲイリーのスター化作戦に取り掛かる。64年11月のことだった。


地味にドラムを叩いていたゲイリーだったが、スナッフは当然「バンドの顔」に仕立て上げるため、リード・ヴォーカリストに抜擢。デビュー曲は既にサミー・アンブローズという歌手がリリースし、ヒットの兆しを見せていた「恋のダイアモンド・リング」(“This Diamond Ring”)に決まった。とにかく完成度の高い、「売れる」ものを作るため、プレイボーイズの演奏を敏腕集団レッキング・クルーにより補強(もし彼ら自身が貧弱なミュージシャン集団だったら、ディズニーランドで演奏させてもらえるわけがない)。さらにゲイリーのヴォーカルまでも、セッション・シンガーであるロン・ヒックリンの歌声を重ね「補強」してしまった。まるで特殊エフェクトを通したようなこの曲のヴォーカルの秘密は、未経験なゲイリーとプロ中のプロであるロンのブレンドにあった。めくるめく転調を施し凝りに凝ったアレンジを手がけたのは、スナッフの当時の「ギャング」のボス的存在となっていたレオン・ラッセル。「恋のダイアモンド・リング」の作曲者には、少し経った後ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」でのオルガン演奏で名を上げたアル・クーパーも名を連ねていた。


のちのロック史を飾る重要人物が関わってもいたこのデビュー曲は、いきなりの「エド・サリヴァン・ショー」出演(この難関越えも、父親のネームヴァリュー無くしてはあり得なかった)による宣伝効果もあり、65年1月16日付ビルボード・チャート65位に早々とランクイン、5週後には見事にナンバー1の座に輝いている。スナッフの目論見通り、ゲイリーはブリティッシュ・インヴェージョンに刃向える国産アイドルのひとりになった。以後、第2弾「カウント・ミー・イン」から「君のハートは僕のもの」(“Save Your Heart For Me”)「涙のクラウン」(“Everybody Loves A Clown”)「あの娘のスタイル」(“She’s Just My Style”)「ひとりぼっちの涙」(“Sure Gonna Miss Her”)、そして66年4月リリースの「グリーン・グラス」に至るまで、単純明快なポップソングを連ね、7曲連続TOP10に叩き込むという偉業を成し遂げている。


67年に入り、激しさを増すベトナムでの戦火が若者たちの意識を直撃し、より内省的で複雑な方向へとポップス界を向かわせるのに伴い、ゲイリーの勢いも衰え始める。そして、あっさり戦場へと向かう決意を彼に促す結果になるのだ。勿論、かつてエルヴィスがそうしたように、コンスタントにレコードをリリースできるだけの量の録音をスペアタイムに貯めてはいたのだが、殆どが「オールドウェイヴ」としてレコード墓場の片隅に追いやられてしまうのだった。完全に除隊して米国に戻ってきた68年には、ポップス界は変わり果ててしまっていた。70年、彼のレコード契約は終焉となった。


そんな時代の流れもあって、ゲイリー・ルイス&プレイボーイズの業績がポップス史に於いてまともに顧みられるまでには、かなりの時間を要している。しかし、単なるオールディーズとしてこれらの楽曲を単純に片付けるのは勿体無い。特にレオン・ラッセルによる丹念なアレンジが施された一連のヒット曲は、王道ポップスとしての輝きを決して失っていない。このレオン一族とのコネクションは、一時期プレイボーイズの正式メンバーに、同じくオクラホマ出身で後に大御所セッション・ドラマーとなるジム・ケルトナーや、サイケポップの名盤アルバムを2枚残したカラーズを経て、エリック・クラプトンとデレク&ザ・ドミノズを結成するカール・レイドルを迎え入れるまでに発展しているのも見逃せないし、作曲面ではレオン近辺にいたロジャー・ティリソンやドン・ニックス、更に後にリトル・フィートで名を成すローウェル・ジョージまで関わっているのだ。


一方、ゲイリーの成功物語はちょっとした「二世タレントブーム」に発展もしている。底抜け仲間ディーンの息子ディノ・マーティンは、「ルーシー・ショー」のデジ・アーナズの息子を迎えディノ・デジ&ビリーを結成、ヒット街道に進出し、フランク・シナトラの娘ナンシーも「にくい貴方」で大ブレイク。その弟もフランク・シナトラJr.としてアーティスト・デビューしているが、それよりもとあるスキャンダルで後世に名を残したのが不幸であった。モンキーズのミッキー・ドレンツも実父は著名な俳優である。奇しくも、モンキーズのプロデューサーとして最初に指名されたのはスナッフ・ギャレットだったが、1回セッションして不本意な結果に終わり、その座をボイス&ハートに譲っている。良くも悪くも、全米各地に草の根的に生まれた「ガレージ・バンド」症候群と好対照な、ハリウッド的楽観性が伺い知れる。日本でも、マチャアキがスパイダースでショウビズ前線に躍り出たのが丁度この頃のことだ。


まぁ長々と書き連ねてしまったが、あまりマニアックな話に頼らず、極上のポップスとしてゲイリーの音楽を楽しむのが一番。まず一曲って方には「涙のクラウン」か「グリーン・グラス」、もしくはサード・アルバム『涙のクラウン』の収録曲で、日本で「ひとりぼっちの涙」のB面にカップリングされた「恋を抱きしめたい」(“We’ll Work It Out”)をお勧めしたい。きっとニヤリとするはず。そして、いつの間にか口ずさんでいるはず。

ザ・プレイボーイズ「恋のダイアモンド・リング」ジャケット撮影協力:鈴木啓之


≪著者略歴≫

丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 2017年5月、初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の3タイトルが発売、10月25日にはその続編として新たに2タイトルが発売された。

恋のダイアモンド・リング ゲイリー・ルイス&プレイボーイズ 形式: CD

ベスト・オブ・ゲイリー・ルイス&プレイボーイズ Gary Lewis ゲイリー・ルイス&プレイボーイズ 形式: CD

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