2019年04月24日
スポンサーリンク
2019年04月24日
いまから58年前にあたる1961年4月24日は、全米シングル・チャートでデル・シャノンの「悲しき街角(Runaway)」が1位を獲得した日だ。ここから4週間も首位の座を守った大ヒット・ナンバーにして、デル・シャノンの代名詞ともいえるこの名曲が、彼にとっての記念すべきデビュー・シングルだった。
僕は昔から1950年代から60年代にかけてのロックンロールやアメリカン・ポップス、総称して“オールディーズ”と呼ばれる音楽が大好きで、かれこれ40年近く聴き続けているが、このデル・シャノンほど歌い方がユニークな人には出会ったことがない。そして、この「悲しき街角」には、デビュー作にしてすでに彼のユニークな個性が凝縮されていたのだ。
若者なら誰もが一度は胸に抱く喪失感や逃避行をテーマにした「悲しき街角」では、歌の内容が主人公の感情を高ぶらせる部分<I wah-wah-wah-wah-wonder>や<Why, why, why, why, why she ran away>にさしかかると、デル・シャノンは突然、まるでサイレンのように唐突なファルセットを繰り出して、聴き手をビックリさせる。こうしたユニークなヴォーカル・スタイルこそが、このロックンローラーを唯一無二の存在とした決定的な要素だったのだ。
もうひとつ、「悲しき街角」のユニークな点に、サウンドの面白さがある。この曲をデル・シャノンと共作しているのは、彼の友人でキーボード奏者のマックス・クルックという人物だが、そのクルックが弾くミュージトロンは、シンセサイザーの前身楽器と呼ばれるもの。間奏部分で鳴り響いているのが、そのミュージトロンなのだが、実は、このマックス・クルックこそが「悲しき街角」誕生のキーパーソンだった。
あるとき、地元ミシガンのクラブで演奏していたデル・シャノンは、マックス・クルックがスタンダード曲「Blue Moon」でおなじみのコード進行にちょっと変化を加えて弾いているのを聴いて、すごく新鮮に感じ、それを発展させようとトライしてみた。サビでは、ハンク・ウィリアムズの曲を参考にして、マイナーからメジャーに転調してみると、素晴らしい楽曲が完成。これこそが「悲しき街角」だった。
その後もデル・シャノンは、「花咲く街角(Hats Off To Larry)」(61年全米5位)、「さらば街角(So Long Baby)」(61年全米28位)、「街角のプレイ・ガール(Little Town Flirt)」(62年全米12位)と、快調にヒットを飛ばす。ファルセットを織り交ぜることで歌に抑揚をつける、そのユニークかつダイナミックな唱法、「悲しき街角」でのミュージトロン、「さらば街角」でのカズーに代表されるサウンド・アレンジの斬新さ、そして、哀しみに満ちた詞世界……彼が生み出すヒット曲は、革新的で、疾走感に満ち、胸をかきたてる魅力にあふれていた。
そんなデル・シャノンの個性豊かな作品群は、我が国でも人気を集めた。先ほど挙げたヒット曲の邦題をご覧いただければ分かるように、日本盤シングルに印刷された邦題には、すべて“街角”という文字が入っている。当時のデル・シャノンが日本で“街角男”と呼ばれていた所以だ。ちなみに、「悲しき街角」は飯田久彦が“ゆっくりしたテンポ”でカヴァーしていたが、そこには、デル・シャノンのレコードにあった疾走感は微塵も感じられなかったし、もちろんミュージトロンみたいな洒落た楽器も響いていなかった。当時の日本は、まだまだノンビリとした時代だったのだ。
デル・シャノンが果たしたもうひとつの功績に、ビートルズのレノン=マッカートニー作品をはじめて全米チャートにランクインさせたことが挙げられる。63年にイギリス公演を行なったデル・シャノンは、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでビートルズと共演(シャノンがヘッドライナーを務めた)。そのときにビートルズが演奏した「From Me To You」をいたく気に入り、イギリス滞在中にさっそくレコーディングを行ない、帰国後にシングル発売したのだ。そのレコードは全米77位まで上昇。アメリカでビートルズ旋風が吹き荒れる半年以上前の出来事だった。
80年代以降は、ジェフ・リンやトム・ペティのプロデュースでアルバムを制作するなど、多くのロック・ミュージシャンからリスペクトされたという点で、ロイ・オービソンとも並び称される存在だったデル・シャノン。彼の最期(90年)は自殺というショッキングなものだったが、「悲しき街角」をはじめとする一連の街角シリーズのヒット・ナンバーは、永遠に不滅なのだ。
≪著者略歴≫
木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。
ゲイリー・ルイスは1945年の本日7月31日、米国ニュージャージー州にて生まれている。父親はディーン・マーティンと共に出演した「底抜け」コメディ映画シリーズで知られ、後年には「24時間テレビ」等...
1966年7月29日金曜日の朝、ボブ・ディランはトライアンフ・バイクに乗ってニューヨーク近郊ベアズヴィルにあるマネジャーの家を出た。バイクを修理に出すためだった。ボブのバイクの後を妻のサラが車で...
日本で一番人気のあるザ・ビートルズの曲は、「ヘルプ!」かもしれない。テレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』のテーマ曲をはじめ、使用される機会は非常に多い。とにかくノリがよくてかっこいい(ビ...
1970年代からヒットを出すようになり、その低音ヴォイスで人気を獲得したバリー・ホワイトは、2003年7月4日、58歳の若さで死去した。バリー・ホワイトは、2002年9月、以前から患っていた高血...
ザ・ビートルズにはアコースティック・ギターの名曲がたくさんあるが、「イエスタデイ」と並びその筆頭に挙げられるのが、同じくポールが書いた「ブラックバード」だろう。いつの頃からか、「ブラックバード」...
1962年6月6日、ザ・ビートルズはEMI(アビイ・ロード)スタジオで初のスタジオ・セッションを行なった。あえて「セッション」と書いたのは、長年「オーディション」と言われていたこの日の演奏が、実...
1967年5月は、米国ロック/ポップス界にとってまさに「嵐の前の静けさ」月間だった。翌月開催された『モンタレー・ポップ・フェスティヴァル』が「ロック革命」の夜明けを告げ、ブライアン・ウィルソンが...
ザ・ビートルズには秀逸な邦題がたくさんあるが、この曲も印象深い。原題の「チケット・トゥ・ライド」に対して担当ディレクターの高嶋弘之氏が名付けたのは、本稿の“主役”である「涙の乗車券」である。4月...
本日4月15日は53年前の’66年に、ザ・ローリング・ストーンズにとって転機となった重要なアルバム『アフターマス』が最初に英国で発売された日だ。同タイトルながら、米国での音楽業界標準のやり方に合...
1963年3月23日、既発シングル2曲計4曲を含む全14曲が収録されたザ・ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がイギリスでリリースされた。イギリスで30周連続1位という驚異...
ダニー・オズモンドの「ゴー・アウェイ・リトル・ガール」は、オズモンズの「ワン・バッド・アップル」が王座に輝いてから7ヶ月後、1971年9月11日付で見事全米No.1に輝いた。アメリカのシングル・...
1981年3月9日、シャネルズの通算3作目となる「街角トワイライト」がオリコン・シングル・チャート1位を獲得した。デビュー曲「ランナウェイ」に続き2度目のチャート1位である。 text by 馬...
今から48年前の今日1969年7月25日にリリースされたテンプターズ唯一のライヴ・アルバム『ザ・テンプターズ・オン・ステージ』は、GS黄金期の熱狂と本質を現代に伝える音の歴史ドキュメンタリーと言...
6月11日は「傘の日」、といえばやはり井上陽水「傘がない」。本日のコラムは当時、ホリプロで制作担当として現場にいた川瀬泰雄による「傘がない」誕生の知られざる経緯です。