2019年07月23日
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2019年07月23日
日本で一番人気のあるザ・ビートルズの曲は、「ヘルプ!」かもしれない。テレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』のテーマ曲をはじめ、使用される機会は非常に多い。納得だ。とにかくノリがよくてかっこいい(ビートルズ自身、DVD『アンソロジー』のオープニングで使っているし)。英国で1965年7月23日にリリースされた全英全米第1位の強力シングルにして主演映画第2弾のタイトル曲。半世紀以上経った今も燦然と輝く「ヘルプ!」だが、その誕生には物語があった。
ビートルズの65年は、前年末から続く<アナザー・クリスマス・ショー>という英国での長期公演で幕を開けた。公演は1月16日に終了。“ハード・デイズ”が終わって、彼らは待望の長期休暇を得ることができたのだが、新たな主演映画の制作も決定していた。オフの間にポール・マッカートニーと映画用の曲を作るのか、と質問されたジョン・レノンはこう答えている。
「難しい。だって、映画のタイトルも決まってないんだから」
休暇が終わると、彼らは2月15日からレコーディングを開始。20日までの6日間でサウンドトラック候補曲を11曲も録音したが、このうち映画に使われたのは6曲だった(アルバム『ヘルプ!』のA面の、「ヘルプ!」以外の曲)。22日には最初のロケ地のバハマへ向かい、翌23日にクランクイン。3月9日にはバハマ・ロケが完了し11日にロンドンへ戻ると、13日には次のロケ地のオーストリアのザルツブルクへ移動し、翌14日からアルプスでロケを敢行。22日に英国へ戻ると24日からはロンドンでロケが再開という忙しさだった。
だが、まだ主題歌ができていない。当初、映画のタイトルは、<エイト・アームズ・トゥ・ホールド・ユー>とされていたが、ジョンにはその曲が作れなかった。いや、作らなかった。おそらく、“こんなタイトルは絶対に変えてやる”と思っていたのではないか。衝撃的なプロテスト・ソングやメッセージ・ソングを次々に発表していたボブ・ディランがとてもかっこよく見えていた。嫉妬さえしていただろう。そんなジョンが“君を抱きしめる8本の腕”なんて歌うアイドル屋をやるわけがなかった(そうは言っても、日本では映画は『4人はアイドル』と名付けられたのだが)。
4月に入ると映画のタイトルが変更された。新タイトルは『ヘルプ!』。カルト教団に追いかけられ逃げ回るビートルズ。そんなストーリーから生まれたタイトルだった。発案者について、ポールは“ジョンか、(監督の)リチャード・レスターだったと思う”、製作者のウォルター・シェンソンは“レスター監督の奥さん”と回想している。
ジョンとポールは、ジョンの家で直ちにこのタイトルの曲作りに取り組んだ。曲が作られたのが4月4日で、レスター監督によれば“タイトルが『ヘルプ!』に決定した30時間後には二人が曲を持って来た”とのこと(逆算すると、タイトルが決定したのは4月2日か3日)。
“こういう曲を書きたい”というシチュエイションではなく、「ヘルプ!」という名の映画主題歌を書かなければならないという使命感・義務感から生まれた曲だ。もし最初にもう少し気の利いたタイトルが考案されていたら、この稀代の名曲は生まれなかった可能性もある。たわいのないタイトルを考えたスタッフには感謝をするべきかもしれない。それより、そういう流れをプラスにして最高の曲をものにする、ジョンとポールの力がすごすぎる。
見事なまでにキャッチーなメロディと詞は、ジョンが作った。メジャーになったりマイナーになったりするコード進行も魅惑的だ。一方ポールは、コーラスは自分が作った、と語っている。ぼくは、後追いになったり追い越したりするこの最高のコーラス部があってこそのこの名曲だと思う(ポールには他のメンバーが素晴らしい曲を作ると自分も存在感を発揮しないと気が済まず異常なまでにがんばるヘキがあるのだ)。ジョンも、こんなパートナーがいることを、特別に心強く思ったのではないだろうか。
イントロの劇的なまでに衝撃的な“助けて!”の連発に導かれ、“♪ミミ~ミミミ~ミミ~ミミミ~ミミ~ソ~ミ~レド”と、ジョン得意の同音進行で1番が始まる。ジョンのヴォーカルがとにかく素晴らしいのだが、ポールの作った対位法コーラスにジョージ・ハリスンが加わっているのがまたいい。このブレンドこそビートルズならではの味だ。リンゴ・スターのドラムも、ポールのベースも、豊かな表情で曲を盛り上げる。表情豊かといえば、作者のジョンのアコースティック・ギターはドラマ的ですらある。ジョージも懸命にエレキをかき鳴らす。“♪タラララタラララ…”という特徴的な高速アルペジオには相当苦労したらしく、“曲が速すぎなんだよ”なんてこぼしている声もセッション・テープで確認できるし、完成版でもぎこちない感じが残る(もしかしたら“去年の「ア・ハード・デイズ・ナイト」の間奏といい、ジョンは難しいことを要求しすぎる!”なんて思っていたかも)。だが、後のライヴではこれを難なくこなしている(それよりライヴではジョンが歌詞をしょっちゅう間違えている)。3番(1番の繰り返し)で、表情たっぷりのリズム・ギターをバックに(コーラスが無く他の楽器群も引っ込む)、“若かったころは…”とじっくり聞かせる心憎いまでの演出といい、「シー・ラヴズ・ユー」でもやった6度のコードのみずみずしいエンディングといい(楽器が遠ざかりコーラスの残響が消えていくドラマのような感覚)、休みなく2分18秒で駆け抜けていく勢いといい、20代前半の若造によくもこんな曲作りができたものだと、ただただ感心する。録音は4月13日、わずか4時間のセッションで完了。作曲から録音までの速攻ぶりが、曲の勢いとなって反映されている。
歌詞は、映画のドタバタ劇とは関係がない。ジョンは「ヘルプ!」というタイトルに触発され、映画のことは忘れたかのごとく、切実な救助要請を歌いこんだ。それは、ありのままのジョンの心の声だった。のちに彼は“ぼくは本気で“助けて”と叫んでいたけど、だれも気付かなかった“と語る。無理はない。彼自身でさえ、曲の深層にあるメッセージのリアルさを認識していなかったのだから。ステージで「ヘルプ!」を演奏する彼らの姿は、ただただまぶしい。だが、英国の音楽誌『ニュー・ミュージカル・エキスプレス』は、当時“歌詞は今までの中で最も思慮深い”と評した。まさにそのとおりであり、一般のファンにもそう感じた人は少なくなかったのではないかと想像する。だけど、4人はまぶしすぎた。
歌詞についてもう一つ触れたい。心の奥底を吐露しつつ、ジョンはしっかりと韻を踏むか、それに近い音感の単語を、しかるべき場所に配置している。1番“today”と“way”、“self-assured”と“doors”、サビの“down”と“round”と“ground”、2番の“ways”と“haze”、“insecure”と“before”。自信作だからこそ、こういうところも手を抜かなかった。
この曲には、モノ・ヴァージョン(7月23日発売のシングルと8月6日発売のモノ・アルバムに収録)とステレオ・ヴァージョン(8月6日発売のステレオ・アルバムに収録)があり、特にヴォーカルがかなりの部分で別テイクが用いられている。詳細は拙著『ザ・ビートルズ・リマスターCDガイド』でご確認いただけると幸いだが、完成後に映画のためにヴォーカルを録りなおし(完成版には、映画の演奏シーンには無いタンバリンが、ヴォーカルと同じトラックに録音されていたため)、映画との整合上モノ・ヴァージョンにだけこのヴォーカルを用いたためと思われる。時期は、映画がクランクアップした5月12日以降と思われ、録音場所は映画のアテレコが行われたロンドンのC.T.S.スタジオだった。ジョンが一人でマイクの前に立ち、ポールとジョージが別のマイクをはさみ、映画の音楽には関わっていないはずのジョージ・マーティン(彼らのプロデューサー)の立ち会いのもと、歌詞カードを持ってヴォーカルを収録している写真が残っているのだ。ところが、この録りなおしたヴォーカルの音質がよくない。音をきれいに録音するために特化されたEMIスタジオと、映画用のスタジオでは、音がこうも違うものだろうか(ほかの要因もあるとしか考えられない)。まあ、音の悪さもそれなりに味があると言えなくもないが、機会があったらぜひステレオとモノを聴き比べてみていただきたい。
「ヘルプ!」は、ビートルズの“アイドル期の最後”とも“脱アイドル期の始まり”ともいえる。だから、「ヘルプ!」は、アイドル期のまぶしさとそれ以降の深さを兼ね備えているのだ。この曲が今もファンを魅了してやまないのは、そんなところにも理由があるのだろう。エド・サリヴァン・ショーなど、ライヴでのこの曲の素晴らしい映像もいくつか残されていることに感謝したい。もしジョンが生きていたら、あの忌まわしい事件で倒れなかったら、ワールド・ツアーが企画されていたという。しかも、スタートは日本で、曲はこの「ヘルプ!」から始まるという構想もあったと聞く。だが、すべては夢に終わった。
分量を大幅にオーバー。熱くなりすぎました。どうかお許しを。これを書いている長い時間、ぼくはずっと「ヘルプ!」を聴いていた。それなのに、全く飽きない。それどころかいつまでも聴いていたくなる。
ぼくにとって、こんな曲は、ほかにない。
≪著者略歴≫
森山直明(もりやま・なおあき):国体卓球競技長野県代表の経歴を持つ体育会系ビートルズ研究家(断言!体育会系にロック・ファン多し)。『レコード・コレクターズ』『DIG』などに“重箱の隅つつき系”の原稿を多数寄稿。著書に『ザ・ビートルズ・リマスターCDガイド』(ミュージック・マガジン刊/2009年)。
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