2015年05月06日

春一番に思う、高田渡のこと(前編)

執筆者:小川真一

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今年も大阪の服部緑地野外音楽堂で、春一番コンサートが開かれた。加川良、いとうたかお、友部正人、有山じゅんじ、大塚まさじなど、多数の歌い手が出演し華やかに催されたのだが、高田渡のいない春一が、もう10年も続いているのかと思った。


 毎年、春になるとざわついた気持ちになる。花々が美しく色づいてくる時期なのに、その景色が味気のないものに見えてしまう。桜の舞う2005年の4月16日に、高田渡はこの世を去った。


 今年は没後10年ということもあり、色々なものが届けられた。その中のひとつが、高田渡「マイ・フレンド」(河出書房新社刊)だ。この本は17才の高田渡の日記を、そのまま復刻したものだ。その書き留めたノートを<マイ・フレンド>と呼び、フォーク・ソングのこと、バンジョの自作に取り組む話、自らが作った歌詞の数々、そして歌への想いが素直な言葉で語りかけている。


 手に取った瞬間、読み出していいものか躊躇した。この中には若き日の高田渡のすべてが詰め込まれている。これを読み終わったら渡さんが消えて無くなってしまうのではないだろうか、そんな思いにかられたのだ。がしかし、もちろん読まずにはいられない。心をただし静かにページをめくった。


 高田渡が17才であった1966年当時はカレッジ・フォークの全盛時代であり、オールド・タイミーやブルーグラスをふくんだアメリカン・フォークの情報は本当に少なかった。渡さんの日記の冒頭にも、ピート・シーガーの存在を知った話が登場してくる。たぶんまわりに、自分とおなじようにフォーク・ソングに関心をよせる友人がいなかったのだろう。だからこそ、親友であるノートに語りかけていったのだ。


66年の6月7日に高田渡は、音楽評論家でフォーク・ソングに造詣の深かった三橋一夫氏のお宅を訪問する。三橋氏から得たものは本当に大きかったと思う。ウディ・ガスリーやボブ・ディランのことだけでなく、添田唖蝉坊の存在を知ることになるのだ。66年9月26日の日記にこう記されている、「そして、ここでこういう事を思いついたのである。「明治・大正の演歌をフォーク・ソングのメロディーにのせて歌ったら」ということである」。


 添田唖蝉坊は、明治・大正期に活躍した演歌師であり、ユーモラスに社会を風刺した歌をたくさん作っている。高田渡が歌った「あきらめ節」「ぶらぶら節」「調査節」などは、唖蝉坊の言葉にカーター・ファミリーやウディ・ガスリーなどのメロディをのせたものであったのだ。つまりは、日本ならではのフォーク・ソングを、ここで発見したのだ。そして高田渡青年は、世に名を残す歌い手としての高田渡へとなっていった。

マイ・フレンド 高田渡青春日記 1966ー1969

高田渡

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