2017年04月02日
スポンサーリンク
2017年04月02日
4月27日は、京都のフォークシンガー、藤村直樹の命日。享年62歳。
吉祥寺で行われた「高田渡生誕祭60」のステージに、藤村直樹さんはいた。発表されていた出演者の一覧には載っていない。
2005年に永眠した渡さんに捧げるコンサートで藤村さんが歌ったのが「君こそは友」というレクイエムだった。「京都ラプソディー2009」というライブで歌ったのが最初だった。
以下に記すのは、別のライヴでの藤村さんのMCだ。
「これは彼だけに捧げる歌ではなくて、彼にも、彼にも、ぼくにも、そして皆さんたちも、いずれは必ずいつの日か天国へ・・中には最後の審判の日に地獄に落ちる人もいるのかもしれませんけど。ぼくなんかはそのうちの第一番目だろうと思うんですけど。
ともかくいつかはこの世を去って、別の世界へ行く。だけどこの世で親友だった君とは、永遠にどんなことがあろうと親友だよねぇ、とそういう歌です」
その後、藤村さんは、この歌のCDを自主制作でつくった。
総勢38人が参加したそのアルバムには15曲が収録されていて、その15曲はすべて「君こそは友」。
15組のミュージシャンがそれぞれの歌い方やアレンジで歌うのだ。
「みなさん、この歌を覚えて歌ってください」といつも言っていた。それはフォークソングというものの在り方の伝統だ。
古今東西、同じ歌を、同じ節回しを、いろいろな人がそれぞれの気持ちで歌う。言葉が変わってもいい。メロディさえ変わってもいい。
ほんとうは音楽を引退して、パレスティナで医療活動に従事しようと考えていた。でもそれはできなかった。だから「君こそは友」は、ガザの子供たちにワクチンを送るためのチャリティーになった。
高田渡のことを指していた≪君≫という言葉が、無数の意味を宿していく。歌う人、聴く人、藤村さん自身、パレスティナの子供たち、この世を生きる地球上のすべての人。
60年代の終わり、関西フォークシーンで岡林信康さんのつくった「友よ」が響いていた。
「友よ、夜明け前の闇の中で、闘いの炎を燃やせ」と大合唱したその歴史の先で、フォークソングは「もし友と言えるものがあるなら、それこそは君」と歌う。
「君の涙、君の汗が報われる日が来る」とフォークキャンプで歌われたその直線上の長い長い先で、私たちは「君の笑顔と出会ったときが、すべてのはじまり」と歌う。
高石友也の薫陶を受け、1969年の第4回フォークキャンプの打ち上げコンサートで、「町工場のブルース」を歌い、それがライブ盤に収録されるも、医学の道に進んだ藤村さん。
だけどやっぱり歌いたくて、赴任先の和歌山で「和歌山フォーク村」をつくり、医師の仕事をしながらフォークソングの種を撒いた藤村さん。
琵琶湖のほとりの病院で、自分を信頼して入院しに来る渡さんを診察する藤村さん。
オフノートから初のオリジナルアルバム「逃避行~めりけんじゃっぷの放浪記譚」を52歳でリリースした藤村さん。
後期高齢者医療制度に反対し、プロテストソング「老人は国会突入を目指す」をつくるために、まるでウディ・ガスリーが各地を放浪して民謡を採譜したように、全国の病院や介護施設を訪問し調査した藤村さん。
京都の拾得で、往年の仲間たちとのライブと、恩師である高石友也さんとのライブを、二夜連続で開催した藤村さん。
平日は医師、週末は歌手というウィークエンドシンガーとして最後まで活動を続けた藤村さん。
生前にカトリックの洗礼を受けた渡さんの霊名はパウロ。藤村さんはプロテスタントの洗礼を受け、パウロの親友であるルカの名を授かった。
ドクター・ヘンリー!
京都、きょうはどんな天気。
それとも、いまごろ、パレスティナ。
古い世代なら、ギターを片手に歌った「ひとり寝の子守唄」を覚えているだろう。この曲で加藤登紀子は69年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後の71年の「知床旅情」のヒットもあり、”フォークの...
高田渡さんがこの世を去って今年でもう13年、世の中は、ぼくらの国は、世界はとんでもなくひどいことになっていくばかりだ。今高田渡さんが生きて歌っていたら、このとんでもない、腐りきってしまったぼくら...
終戦記念日にNHKでオンエアされたドキュメンタリー番組『戦慄の記録 インパール』を昨日11月7日の深夜ようやく観ることができた。太平洋戦争で「陸軍史上最悪の作戦」と言われているインパール作戦の全...
1月29日、25年の時空を超えて、シバの「帰還」がが再発された。 text by 緒川あいみ
五つの赤い風船と初めて出会ったのはいつのことだったのかはっきりとした記憶はないが、恐らく1968年になってから行われたフォーク・コンサートのひとつでだったと思う。風船のメンバーの中でもぼくはギタ...
高石ともやさんと初めて会ったのは、1967年3月のことだった。大阪市内の小学校を会場に借りて行われたベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)関係のベトナム戦争反対の集会に講演を聞きに行ったら、そこ...
第1回全日本フォークジャンボリーはいわゆる「関西フォーク」のひとつの頂点を示すものとして捉えられ、その後も70年、71年と規模を拡大して続けられていくが、ぼくにとっては、終わりの始まりとして強く...
1969年8月1日、会員組織による配布に限られていたURCレコードが、一般販売を開始した。発表されたのは『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断罪せよ』と五つの赤い風船の『おとぎばなし』の...
1969年の6月28日、新宿駅西口地下広場でのフォークゲリラ集会に道路交通法を適用した機動隊が突入した。 地下広場や地下通路、駅前や商店街の路上などでフォークソングを歌うフォークゲリラと呼ばれ...
1970年の本日、岡林信康のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』がリリースされた。今年で45周年ということになる。
高田渡の若き日の日記をまとめた「マイ・フレンド」(河出書房新社刊)を編纂したのは、息子の高田漣であった。ミュージシャンとして、<渡の息子>という肩書きはもう必要ない。細野晴臣、高橋幸宏、星野源ら...
西岡恭蔵は、1948年の今日(5月7日)、三重県志摩半島に生まれた。日本フォーク&ポップス史にその名を刻むシンガーでありソング・ライターである。 text by 篠原章
今年も大阪の服部緑地野外音楽堂で、春一番コンサートが開かれた。加川良、いとうたかお、友部正人、有山じゅんじ、大塚まさじなど、多数の歌い手が出演し華やかに催されたのだが、高田渡のいない春一が、もう...