2017年11月21日
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2017年11月21日
今年の8月15日の終戦記念日にNHKでオンエアされたドキュメンタリー番組『戦慄の記録 インパール』をぼくは見逃していたのだが、昨日11月7日の深夜というか、8日の午前1時45分から再放送があったので、それでようやく観ることができた。
太平洋戦争で「陸軍史上最悪の作戦」と言われているインパール作戦の全貌が、貴重な資料、生き残った兵士たち、遺族や関係者の証言、初めての現地取材などで明らかになるのだが、ほんとうにすごい番組だった。勝ち目がまったくなくても絶対に後には引かないし、どれだけ犠牲が出ようとも兵士の命など何とも考えていない。そして大失敗に終わっても責任を取ろうとせず、そこから目を逸らし、ほかに転嫁しようとする。旧日本軍の体質、指導者たちの恐ろしい姿がはっきりと描き出されていた。
そしてこの番組を観ながら、終始ぼくの頭に浮かび上がってきたのが、加川良さんの歌「教訓1」だった。
「御国は俺たち死んでも、ずっと後まで残りますよね。失礼しましたで終るだけです。
命のスペアはありませんよ」という内容の曲だ。
ドキュメンタリーはまさに一人一人の兵士の命など一顧だにしない「御国」の姿、作戦を立て、指揮を取り、命令を下す指導者たちの姿を浮かび上がらせる。それを信じて、あるいはそれに逆らえずに命を落とした若者たちがどれほどいたことか、その真実を突きつけられて、怒りと悔しさ、悲しみと憤りで胸が張り裂けそうになってしまう。
だからこそ加川良さんは、こんなことがもう二度と繰り返されないようにと、こんなことが絶対に起こらない未来にしようと、「命はひとつ、人生は一回。だから命を捨てないように。あわてるとついフラフラと、御国のためと言われて、その気になってしまう。命を捨てて男になれと言われたら震えましょう。わたしは女で結構。女のくさったのでかまいません。青くなって尻込みなさい、逃げなさい」と歌ったのだ。
加川良さんの歌で広まった「教訓1」だが、これはすでにみんなが知っているように作家の上野瞭さんが1967年に三一新書で発表した『ちょっとかわった人生論』の中の「戦争について」の「教訓ソノ一」をアレンジしたものだ。ぼくはこの本を高校生の時に買って読んでいたので、加川良さんの歌を聞いた時、「あっ、これは上野さんの『教訓ソノ一』をもとにしているな」とすぐにわかった。
しかし上野さんには失礼だが、この本はそれほど売れなかったようで、発売された当時話題にしたり、買って読んでいる人はぼくのまわりにはほとんどいなかった。そして今この本はめちゃくちゃ入手困難なものとなっている。もし加川良さんが歌にしなければ、上野暸さんが書いた言葉は、これほど知られ、広まることはなかったのだ。
加川良さんが「教訓1」を歌い始めた頃、この曲の歌詞は本人が書いたものだとみんなから思われていた。しかしはっきりしておかなければと、1972年12月に加川さんは上野さんの家を訪れた。その時のことを上野さんは1985年に光村図書から出版された『日本のプー横町』という本の中の「教訓」という章で次のように書いている。イーヨーとは、上野暸さん自身のことだ。
「話によれば、梅田の地下で、身障者のためにボランティア活動を続けている人がいて、パンフを売っていた。それを一部買ったところ、イーヨーの書いたものが載っていたというのである。加川良は、これは歌になると思った。うたってみたいと思った。かくして、フォーク・ソング『教訓1』が生まれ、それは、シンガー・ソング・ライターとしての加川良を人びとに知らしめることになった……」
「イーヨーは、その歌を聞いたことがなかった。くわしい事情を聞いても仕方がないという気持ちになっていた。現に一人の若い歌手がうたっている。うたうことで自分の生き方を確かめようとしている。それがたまたま、イーヨーの書いたものであった。それだけのことなら、事後承諾で十分である」
「曲をつけたのはあなたでしょ。書き言葉と歌は違いますよ。ぼくが、いくらいい言葉を書きつらねたとしても、それは活字となって特定の読者にとどくだけや。歌は異質の文化ですよ。ま、これからは、ぼくのどこそこより採った……という一行を、入れておけばいいだけやないのかな」
上野さんの言うとおり、加川良さんが歌にすることで、上野さんの言葉は広く伝わり、50年近くが過ぎた今もその言葉に共感した多くの人たちによって「教訓1」は歌われている。世代を超えて現在も歌われ、そして確実に未来へと歌い継がれて行く。もともとは上野さんの言葉だが、加川良さんが歌にすることによって、その言葉は今も生きて伝わり続けているのだ。
指導者たちが数の論理を振りかざして暴走し、持たざる者の命などどうなってもいいと考え、独裁や戦争に向かって突っ走ろうとする今の日本の中で、「教訓1」はまさに歌われるべき歌となっている。上野暸さんの言葉を「教訓1」という歌にして、今に伝える加川良さんは、ほんとうにすごいことをしてくれたんだなと、ぼくは改めて思わずにはいられない。
11月21日、本日は加川良さんの誕生日。存命ならば古希となるはずだった。
≪著者略歴≫
中川五郎(なかがわ・ごろう):1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。アルバムに『終わり・始まる』(1969年、URC)、『25年目のおっぱい』(1976年、フィリップス)、『また恋をしてしまったぼく』(1978年、ベルウッド)、『ぼくが死んでこの世を去る日』(2004年、オフノート)、『そしてぼくはひとりになる』(2006年、シールズ・レコード)。著書に『未来への記憶』(話の特集)、『裁判長殿、愛って何』(晶文社)、小説『愛しすぎずにいられない』(マガジンハウス)、『渋谷公園通り』(ケイエスエス出版)、『ロメオ塾』(リトルモア)、訳書に『U2詩集』や『モリッシー詩集』(ともにシンコー・ミュージック)、『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、紀行文集『ブコウスキーの酔いどれ紀行』、晩年の日記『死をポケットに入れて』、『ブコウスキー伝』(いずれも河出書房新社)、『ぼくは静かに揺れ動く』、『ミッドナイト・オールデイ』、『パパは家出中』(いずれもアーティスト・ハウス)、『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)などがある。1月25日に最新アルバム「どうぞ裸になって下さい」をコスモス・レコーズからリリース。
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