2016年08月31日

47年前の今日、ライヴから遠ざかっていたボブ・ディランがワイト島のフェスティヴァルにバンドとともに出演

執筆者:天辰保文

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イングランドの南岸ポーツマスに向き合う形でワイト島は浮かんでいる。夏には、リゾート地として賑わうらしいが、音楽フェスティヴァルでも有名だ。1969年8月31日、そのワイト島で開催されたフェスティヴァルでのことだった。「みんな、さあ、座ってくれ。ザ・バンドとボブ・ディランを迎えよう」のMCに続いて、ボブ・ディランがステージに登場したのは、予定より随分遅れて午後11時に近かったという。


真っ白なスーツ姿のディランは、ザ・バンドをバックに、「シー・ビロングズ・トゥ・ミー」を歌い始める。今年の来日公演でも、毎回歌われた曲だ。その後、アンコールの「雨の日の女」で終わるまで約1時間、合計17曲をディランは歌った。それも、澄んだ歌声で、時に軽妙に、またある時は丁寧に。


『ジョン・ウェズリー・ハーディング』や『ナッシュヴィル・スカイライン』から、初めて披露される曲もあれば、「ライク・ア・ローリング・ストーン」を含めて、お馴染みのもあった。「追憶のハイウェイ61」では、ザ・バンドの演奏と一緒に体重の乗ったスピードでたたみかけ、スコットランドの民謡「ワイルド・マウンテン・タイム」のように、アコースティック・ギターでの弾き語りもあった。


ディランが、モーターサイクルの事故で重傷を負い、その療養をかねてウッドストックに引きこもるのは、その3年前だ。ザ・バンドのメンバーを呼び寄せ、ビッグ・ピンクと呼ばれる一軒家の地下室で、セッションを重ねていく。マンフレッド・マンでは親しまれていたが、ディラン本人の歌ではこの日が初めての「マイティ・クイーン」も、そのセッションで生まれた曲の一つだった。


そうやって、ウッドストックで世の中の喧騒から逃れ、家族との日常を大切に穏やかな日々を送っていた。1968年1月、ニューヨークのカーネギー・ホールで、ウディ・ガスリー追悼公演に出演したり、69年7月、ザ・バンドのイリノイ公演に飛び入りで出た以外は、ライヴから遠ざかっていた。誰もが期待したウッドストック・ミュージック&アート・フェアへの出演も拒み、その代わりに選んだのがワイト島だった。それだけに、この日の出演は、注目の的だった。


このフェスティヴァルの模様は、アルバム『セルフ・ポートレイト』で一部公開されたが、全貌が明らかにされるのは、2013年、ブートレグ・シリーズ第10集『アナザー・セルフ・ポートレイト』のデラックス・エディションだ。それを聴いていると、ステージには、幾人ものディランがいるような錯覚に襲われる。カントリーもあれば、フォークも、ポップスも、そしてロックもある。


しかも、いずれもがディランであることから逃れず、全てを引き受けているあたりが、この人らしく、だからこそ、どんな時代であれ、他人を惹きつけずにはおれないのだろうなと思いつつ、その直後のアルバムを、『セルフ・ポートレイト』と名付けるなんてのも哲学的だなあと、ほとほと感心させられる。しかも、このときディラン、28才だ。


ワイト島での出演は、必ずしも好意的に受け止められたわけではない。短い演奏時間を含めて、観客には物足りなさが残ったし、酷評に近いものさえあった。ディランは、帰国後ニューヨークに移り、再び、人前で演奏することから遠のいていく。そして、その年の暮れ、サラとの間に新しい息子を授かる。ジェイコブと名付けられたその子が、後に父親と同じ道を歩み、ウォールフラワーズを率いて、父親が受賞した同じ年に、グラミー賞を受賞するとは、流石のディランにも予想できなかっただろうな、と思う。


アナザー・セルフ・ポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集)[デラックス・エディション]

アナザー・セルフ・ポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集)[スタンダード・エディション] ボブ・ディラン

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