2018年04月16日
スポンサーリンク
2018年04月16日
「歌わないことがいちばんいい」
高田渡さんが言ったとされる有名な言葉だ。
加川良さんも高田渡さんのことを歌った「下宿屋」という自作の歌の最後を次のような内容の言葉で結んでいる。
「何がいいとか悪いとかそんなことじゃない。たぶんぼくは死ぬまで彼になりきれないだろうから。ただその歯がゆさの中でぼくは信じるんです。歌わないことがいちばんいいんだと言える彼を」と。
「歌わないことがいちばんいい」、いろんな意味に受け取れる言葉で、その解釈も人によって違ってくるだろう。もちろん渡さんは彼なりのちゃんとした理由があって、そういう発言をしたのだと思う。でもぼくはこの「歌わないことがいちばんいい」という言葉にこそ、「自分は自分の歌いたいことだけを歌いたい」、「自分の思いをどこまでも正直に歌にしたい」という彼の歌に対する強い思いが反語的な意味合いで込められているように思えてならない。もちろんぼくが大きな勘違いをしているだけなのかもしれないのだが…。
「歌わないことがいちばんいい」という高田渡さんのこの言葉を、敢えて歌うことに対する彼なりの強い決意、熱い思いだと受け止めるとすれば、もし今彼が生きていたら、いったいどんな歌を歌ってくれるのだろうかとぼくは思わずにはいられない。
高田渡さんがこの世を去って今年でもう13年、世の中は、ぼくらの国は、世界はとんでもなくひどいことになっていくばかりだ。ぼくらの国では平気で嘘をつき、ごまかしと不正を繰り返し、憲法も変えて戦争ができるようにしようとするとんでもない政権が長期にわたって居座り続け、多くの人たちがそうした政治家たちにノーを突きつけて政権を覆すこともできず、性懲りもなく選び直し続けている。それが現状だ。ほんとうにとんでもないことに、ほんとうにひどいことになってしまっている。それなのに立ち上がろうとしない人たちがたくさんいる。たくさんいすぎる。
1960年代後半に高田渡さんが日本のフォーク・シーンに登場して来た時、彼はマルヴィナ・レイノルズ(Malvina Reynolds)の「アンドラ」の替え歌で「自衛隊に入ろう」を作って、自衛隊の軍備強化や日米安保体制を痛烈に皮肉ったり、有馬敲さんの「値上げ」という詩に曲をつけて歌ったり、いわゆる政治や社会問題を諧謔を込めて歌っていた。しかしすぐにもそうした歌は歌わなくなり、自分の暮らしぶりや恋心を歌ったり、日本や外国の詩人のさまざまな詩を見つけ出して来て、それに曲をつけて歌うようになった。その「変化」について、高田渡さんは自伝とも言える『バーボン・ストリート・ブルース』の中で次のように語っている。
「高石友也や岡林信康のように正面切って自分の主張をぶつけるのもたしかにひとつの方法ではある。しかし僕は、自分の日常生活をそのまま歌うことが最高のプロテストソングではないかと思ったのだ」
「僕は普通の人たちのことを歌い始めた。黙々と働く普通の人々の日常のことを。学生運動や反戦フォークソングとはまた違ったやり方で」
「好きで現代詩をいろいろ読んでいたなかで、日常の風景を語りながらも静かに問題提起をしているという詩に多く出会ったからだ。そういう詩を読むたびに僕は思った。『そうなんだよ。力んでワーワー言えばいいというもんじゃないんだよ』と」
「僕は普通の人々の日常を歌った現代詩に魅かれ、それらに自分で曲をつけるというやり方をとってきた」
今高田渡さんが生きて歌っていたら、このとんでもない、腐りきってしまったぼくらの国を前にして、いったいどんな歌を歌ってくれるのだろうか。高田渡さんと違ってこのぼくは2018年のどうしようもないこの状況の中で、正面切って自分の主張をぶつける、力んでワーワー言うような歌を歌っている。それがぼくのやり方だし、ぼくにはそれしかできない。だからこそぼくとは違うやり方で、それもとても強烈なやり方で時代と向き合ってくれるはずの高田渡さんの「新しい」歌を、今とても聞きたいと思う。「歌わないことがいちばんいい」という渡さんの言葉は、「歌うんだ」という彼の強い意志の反語的表現だとぼくは勝手に思っているから…。
でもその高田渡さんは「歌わなく」なってしまってからもう13年になる。
≪著者略歴≫
中川五郎(なかがわ・ごろう):1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。アルバムに『終わり・始まる』(1969年、URC)、『25年目のおっぱい』(1976年、フィリップス)、『また恋をしてしまったぼく』(1978年、ベルウッド)、『ぼくが死んでこの世を去る日』(2004年、オフノート)、『そしてぼくはひとりになる』(2006年、シールズ・レコード)。著書に『未来への記憶』(話の特集)、『裁判長殿、愛って何』(晶文社)、小説『愛しすぎずにいられない』(マガジンハウス)、『渋谷公園通り』(ケイエスエス出版)、『ロメオ塾』(リトルモア)、訳書に『U2詩集』や『モリッシー詩集』(ともにシンコー・ミュージック)、『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、紀行文集『ブコウスキーの酔いどれ紀行』、晩年の日記『死をポケットに入れて』、『ブコウスキー伝』(いずれも河出書房新社)、『ぼくは静かに揺れ動く』、『ミッドナイト・オールデイ』、『パパは家出中』(いずれもアーティスト・ハウス)、『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)などがある。1月25日に最新アルバム「どうぞ裸になって下さい」をコスモス・レコーズからリリース。
イルカは、1974年10月25日にシングル「あの頃のぼくは」でデビュー。来年はソロ・デビュー45周年を迎えるベテラン女性シンガー・ソングライターだ。いつまでも少女の雰囲気を失わず活動を続けている...
1978年(昭和53年)の今日、11月27日付オリコン・アルバム・チャートの1位を飾ったのは、アリスの2枚組ライヴ・アルバム『栄光への脱出〜アリス武道館ライヴ』である。同年8月29〜30日の日本...
この曲が出たのは1973年9月。ぼくは当時、アイドル雑誌『月刊明星』の編集者だった。 実は「神田川」を最初に聴いたのは、発売より少し前だったと思う。場所は、かぐや姫が所属していたユイ音楽工房の...
本日、8月7日は、「第3回全日本フォークジャンボリー」が47年前に開催された日である。“サブ・ステージで「人間なんて」を歌っていた吉田拓郎が観客をあおってメイン・ステージへなだれ込ませた”という...
最初の出会いは、三浦さんが20歳、僕が18歳の時でした。早稲田大学グリークラブの先輩後輩として3年、それから今日まで半世紀に渡るつきあいとなりました。これまで三浦さんが成した数々の起業、その中に...
1971年の初夏、場所は東京の吉祥寺。そこにぐゎらん堂という店があった。そのぐゎらん堂のビルの屋上で、私はかの高田渡、シバ、若林純夫、村瀬雅美といった面々とギターを弾いていた。タンポポ団のスター...
終戦記念日にNHKでオンエアされたドキュメンタリー番組『戦慄の記録 インパール』を昨日11月7日の深夜ようやく観ることができた。太平洋戦争で「陸軍史上最悪の作戦」と言われているインパール作戦の全...
4月25日は、あがた森魚のデビュー・シングル「赤色エレジー」が発売された日である。と同時に、はっぴいえんどや大瀧詠一や細野晴臣のソロ・アルバム、それに、はちみつぱいやザ・ディランIIなど、日本の...
4月27日は、平日は医師、週末は歌手というウィークエンドシンガーとして最後まで活動を続けた藤村直樹の命日。享年62歳。text by 緒川あいみ
1月29日、25年の時空を超えて、シバの「帰還」がが再発された。 text by 緒川あいみ
本日、1月27日はピート・シーガーの命日となる。ぼくがピート・シーガーの自宅を訪ねたのは2011年6月21日のことだった。マンハッタンから車で90分ほど、ニューヨーク州南東部、ハドソン川沿いのビ...
五つの赤い風船と初めて出会ったのはいつのことだったのかはっきりとした記憶はないが、恐らく1968年になってから行われたフォーク・コンサートのひとつでだったと思う。風船のメンバーの中でもぼくはギタ...
第1回全日本フォークジャンボリーはいわゆる「関西フォーク」のひとつの頂点を示すものとして捉えられ、その後も70年、71年と規模を拡大して続けられていくが、ぼくにとっては、終わりの始まりとして強く...
高田渡の若き日の日記をまとめた「マイ・フレンド」(河出書房新社刊)を編纂したのは、息子の高田漣であった。ミュージシャンとして、<渡の息子>という肩書きはもう必要ない。細野晴臣、高橋幸宏、星野源ら...
西岡恭蔵は、1948年の今日(5月7日)、三重県志摩半島に生まれた。日本フォーク&ポップス史にその名を刻むシンガーでありソング・ライターである。 text by 篠原章
今年も大阪の服部緑地野外音楽堂で、春一番コンサートが開かれた。加川良、いとうたかお、友部正人、有山じゅんじ、大塚まさじなど、多数の歌い手が出演し華やかに催されたのだが、高田渡のいない春一が、もう...