2015年10月11日

エノケン大いに唄う…本日10月11日は榎本健一の誕生日

執筆者:鈴木啓之

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“喜劇王”という称号を冠する役者は数多かれど、その名が最も相応しい日本の元祖・喜劇王といえば、間違いなくエノケンこと榎本健一であろう。1904(明治37)年10月11日、東京の青山生まれ。2004年に生誕100年を迎えてから、さらに11年を数えることになる。没後からも既に45年が経つものの、その揺るぎない功績はこれからもずっと語り継がれてゆかなければならない、昭和の笑芸界における最重要人物なのである。


役者の道を志して浅草オペラの劇団に所属していた俳優・柳田貞一に弟子入りし、コーラス・ボーイとしてデビューしたのは1922年のこと。関東大震災の前年であった。昭和に入ってから、ジャズ・シンガーの二村定一らと共に旗揚げした劇団がやがて“エノケン一座”として大人気を博し、舞台ばかりでなく銀幕でも活躍。1934年の『エノケンの青春酔虎伝』を皮切りに主演作が次々と作られていった。オペレッタやミュージカルの要素が強いそれらの作品に欠かせないのが、やはり音楽である。持ち前のリズム感に乗せてエノケン自らが歌う主題歌・挿入歌の数々はどれも魅力に溢れている。


『エノケンの法界坊』の「ナムアミダブツ」や、『孫悟空』の「孫悟空のテーマ」などは傑作としてとりわけ有名。「洒落男」の替え歌が用いられた『エノケンの千萬長者』の「千萬長者の歌」なども、当時映画を観た方にとっては痛快で忘れられないであろう。大金持ちの息子の主人公が、有り余る財産に囲まれ、どんなに金遣いを荒くしても「遣いが足りん!」と叱責されてしまう内容は後の漫画「おぼっちゃまくん」の原型であり、今リメイクしても面白いのではないか。『エノケンのちゃっきり金太』『エノケンの爆弾児』等々、“エノケンの~”とタイトルに冠された作品は戦前・戦後に亘って数多く作られているが、やはり30代の頃までの戦前の作品の勢いが凄まじい。もう一方の雄・古川緑波との共演が叶った戦後は、喜劇界の重鎮として君臨し、殊に1954年に日本喜劇人協会の会長となってからは、自ら舞台に立ちつつも、後進を育てる立場に転化したと言ってよいだろう。しかしながら生涯現役を貫いた喜劇王には、もう少し長く生き永らえて喜劇界の後見を務めて欲しかった。


歌手としては、浅草時代から各社で吹き込みをしており、1936(昭和11)年にポリドールの専属となってからは多くの録音が遺されている。多くの日本人に歌われているポピュラーソング「私の青空」や「月光値千金」などの粋なヴォーカルは、榎本にしか出せない独特な味わいに満ちており、十八番として知られるところ。ディック・ミネが得意とする「ダイナ」も、コミカルな詞が施された「エノケンのダイナ」はあたかも別の作品であるかの様な確固たる存在感を示している。60年代には“ホホイのホイでもう一杯”の「渡辺のジュースの素」や、“うちのテレビにゃ色がない”の「サンヨーカラーテレビ」といったコマーシャルソングでも一世を風靡して、テレビ時代にも健在ぶりを発揮した。後のコミックソングの歌い手たちに与えた影響も大きいと思われ、同じ浅草育ちの喜劇人・ビートたけしの朴訥なヴォーカルにその継承を指摘する声も聞かれる。


『サンヨーカラーテレビ』は冗談音楽で知られる三木鶏郎の作品。三木との相性が抜群に良かった榎本は、67年に『エノケン、トリメロを歌う』というアルバムをレコーディングしてキングレコードから発売されている。「僕は特急の機関士で」や「これが自由というものか」など、誰もが知る鶏郎ソングの代表曲が収録された。最晩年となるこの時期はレコードの吹き込みが盛んで、ポリドールからは再録音によるベスト『エノケン大いに唄う』、東芝からは芸能生活45周年記念盤の『エノケン人生』を発売。「帰って来たヨッパライ」や「バラ・バラ」など、当時流行っていたフォークやポピュラーソングにも果敢に挑戦し、素晴らしい成果を見せてくれた。中でもレインボウズの「バラ・バラ」のカヴァーはアヴァンギャルド な仕上がりで初めて聴くと驚かされること必至。三木たかし作によるオリジナル・シングル「雨の日の子守唄/破れハートに風が吹く」(コロムビア)という、ビート感溢れる一人GSの隠れた傑作もある。喜劇王・エノケンの歌世界は実に奥深いのだ。

榎本健一

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