2017年09月26日
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2017年09月26日
漫談家・牧野周一の弟子であり、ウクレレ漫談で一世を風靡した芸人・牧伸二が突然世を去ってからもう5年近くになる。人気が出始めて間もない頃、1963年に司会に起用された『大正テレビ寄席』は、60年代後半に訪れた演芸ブームの際に重要な役割を果たして15年も続き、牧伸二はその間一貫して番組の顔として司会を務めた。愛川欽也や長門裕之らによって結成された“昭和九年会”のメンバーであったことも有名であろう。晩年には東京演芸協会の6代目会長を務めていた。9月26日は牧伸二の誕生日。1934年生まれの氏が存命であれば、83歳を迎えることになる 。
芸名の名付け親は師匠である牧野周一。ウクレレを弾きながらの漫談という斬新なスタイルも牧野からの薦めであった。ハワイアンのスタンダード「タフアフアイ」をアレンジした「やんなっちゃった節」で注目され、文化放送のレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』が始まったのが1960年。その翌年には最初のレコード「ヤンなっちゃった節/あのさ都々逸」がキングレコードから発売されている。ジャケットには富永一朗のイラストがあしらわれていた。さらに翌62年にも「アイウエオ節/新ヤンナッチャッタ節」をリリースして人気がいよいよ加熱していた頃にNET(現・テレビ朝日)で『大正テレビ寄席』が始まったのだった。番組名の“大正”は大正製薬がスポンサーだったため。最初の3ヶ月は落語家の三笑亭笑三との二人司会体制であったという。
最終回まで続いた“マキシンのバーゲンセール”は、最初に出てきたたわいのない品物が高い値段で競り落とされ、後からその品に関連した落札額以上の品物がおまけに付いて結局落札者が得をする、という趣向が凝らされた名物コーナーで、売上金は公益社団法人「あゆみの箱」に寄与された。創設の際に伴淳三郎と森繁久彌が関わったあゆみの箱を全国的に知らしめたのも番組の貢献度は大きかったことだろう。現在では渋谷ヒカリエが聳え立つ、かつての東急文化会館の地下にあった映画館で公録が行われていたそうである。その『大正テレビ寄席』の軽妙な司会ぶりで、牧伸二の人気はいよいよ本格化し、やがて迎える演芸ブームの中心的な役割を果たすこととなる。1964年にはコロムビアから出された3枚目のレコード「あゝやんなっちゃった/御前サマ」がスマッシュヒットを示した。前2枚のシングルがほとんど売れなかったのをみると、遂に人気がブレイクした様子が窺える。
その後もレコードのリリースは潤沢で、人気絶頂の68年には再びキングから「殺し文句/銀座で逢いましょう」と「ハレンチブルース/サラリーマン数え唄」、69年にも「ネオン花/キャバレー・ブルース」、さらに71年にはビクターから「牧伸のジンジロげ/「週刊マキシン」発売中」が出されているが、なんといっても有名なのは77年にコロムビアから出された「マキシンのソウル・それはないじゃないか!!/ナベヨコ・ソウル」だ。ソウルミュージックのブームに乗って、牧伸二とブラックジャック名義で出された同作品は、後に復刻盤も出されている。85年にはシングル「タクシー行進曲/ゴルフ・ブギ」をリリース。そしてCD時代に入った91年にはまたもや新ジャンルに挑んだ「ヤンナッチャッタレゲエ/ホンモホンモ」をリリースしてキング・オブ・ウクレレ漫談の面目躍如。93年にはワールド・ミュージックに挑んだアルバム『ナンセンス・アイランド』を出すなど、音楽的にも感度の高い活動を残しているのはさすがである。2004年に古希を迎えた際には「コキコキロック70」をリリースし、渋谷クラブクアトロで記念ライヴ『平成クアトロ寄席』が開催された。多数のゲストが駆けつけて“マキシンのバーゲンセール”が再現されたのは記憶に新しい。翌2005年にはアルバム『牧伸二のウクレレ人生』も発表。ライヴのポスターやCDのジャケットに使われていたナンシー関画伯の消しゴム版画は本人もお気に入りだったのだろう。
演芸場のみならず、テレビ、映画、レコードと大活躍した牧伸二の弟子に泉ピン子がいるのは知られているが、あの芸風を継いでいるわけではない。時折『笑点』でも見かける、ぴろき氏に期待が寄せられるところ。そしてもう一人、朝ドラ『ひよっこ』で牧伸二役を見事に演じていた、マニアックものまねでお馴染みのウクレレえいじ氏にも芸の継承をお願いしたい。時事ネタ満載のウクレレ漫談はいつの時代にも聞いていたい至極の芸なのだ。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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