2015年07月16日

ジス・イズ・ミスター・トニー谷

執筆者:鈴木啓之

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7月16日はトニー谷の命日である。
日本の喜劇人の中でも、“ヴォードヴィリアン”の称号が最も似つかわしいのが、赤塚不二夫「おそ松くん」の名キャラクター、イヤミのモデルとして知られるトニー谷である。戦後、劇場事務員としてアーニー・パイル劇場(接収時代の東京宝塚劇場)に就職した後、大道具、演出助手、マネージャーなどを経て、昭和24年に芸人となった。メインはあくまで司会者。トニイングリッシュと称された英単語混じりの不思議な言語を操り、コールマン髭とフォックス眼鏡の特徴あるルックスで、リズムに乗せたそろばん芸を披露する。「レイディース、エン、ジェントルメン、アンドおとっつぁんおっかさん!」の決め台詞で登場する流暢な喋りが大人気となり、流行していたジャズコンサートの司会に引っ張りだこだったという。26年に帝劇ミュージカルズの第1回公演『モルガンお雪』に出演したのをきっかけに東宝専属となり、菊田一夫がプロデュースした「東宝ミュージカル」の舞台には欠かせない存在となる。同時期に活躍した森繁久彌や三木のり平らとともに映画にも多数出演した。29年に宝塚映画で製作された主演作『家庭の事情』シリーズは、「馬ッ鹿じゃなかろかの巻」「さイざんすの巻」「おこんばんわの巻」「ネチョリンコンの巻」と4本作られ、中でも第1作で、家の中を電車が横断するという驚愕のシーンは忘れられない。

客や共演者に一切媚びない、アクの強い芸風を長く持続させるのは難しかったとおぼしく、人気が下り坂となりつつあった30年に起きた長男誘拐事件が、人気芸人の毒舌を封じ込めるとどめとなってしまう。長男は無事に救出されたものの、トニー谷の人気は一気に下落し、東宝との契約も打ち切られてしまった。しばらく後、37年からよみうりテレビで放映された『アベック歌合戦』の司会でカムバックするも、番組終了後は再び第一線から遠ざかっている。その後、時折テレビや舞台に出演し、殊に晩年は永六輔のバックアップにより渋谷ジァンジァンでショーを行なったりもしたが、62年7月に69歳でその生涯を終えた。ちょうどその頃、トニーが全盛期に遺したレコードをアルバムに纏めたのが、誰あろう大瀧詠一である。期せずして追悼盤になってしまったが、時代を経ても色褪せない傑作群の復刻はトニーの生前から企画され、作業が進められていた。当時の大瀧は自身の楽曲製作よりも、ジャパニーズ・ポップスのアーカイヴに注力していた時期で、トニーの没後にLPとCD、さらにカセットテープでも発売された『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』は、氏の活躍期を知らない若い世代たちをも驚かせる、傑作揃いであった。


最初のオリジナル作品「さいざんすマンボ」に始まり、大瀧が最高傑作と讃える第2弾「チャンバラ・マンボ」、東宝映画のイメージ・ソング「あゝ家庭の事情!」、『アベック歌合戦』で復活後に出された「あんたのおなまえ何ァんてェの」は青島幸男が作詞している。デビュー曲の「レディス&ヂェントルメン&おとっさん、おっかさん」は当時のポピュラー・ヒット「ユー・ビロング・トゥ・ミー」のカヴァー等々、とにかく熱気に満ちている。コント仕立ての「サンタクロース・アイ・アム・橇」も「ジングル・ベル」の秀逸なカヴァーとして特筆に値する。人気者がレコードを出すのは昔からの常だが、トニー谷の歌は歌手が本業ではないにもかかわらずリズム感に長けており、歌声も抜群に魅力的だ。作曲のキーマンは多忠修。トニーと同様、ジャズコン・ブームで頭角を現したサックス奏者で、“多忠修とビクター・オールスターズ”のバンドリーダーとして、作曲家・編曲家としても活躍を遂げた人物であった。今日に至るまで辛うじてトニー谷の名が忘れられずにいるのはこのアルバムの存在が大きく、大瀧の功績は計り知れない。ライナーには小林信彦の解説、そして曲目解説の厚家羅漢は、もちろん大瀧のペンネームである。なお、CDは帯のタイトルの横に(プロデュース:大瀧詠一)と刷られているのが本当の初回盤なので、ナイアガラ・コレクターの方はチェックしてみてください。トニー谷の悪辣な芸は永遠ざんすよ。

トニー谷

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