2017年05月11日
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2017年05月11日
石川さゆりの代表作「津軽海峡・冬景色」をはじめ、テレサ・テン「つぐない」、わらべ「めだかの兄妹」など、国民的なヒット曲を次々と世に送り出した作曲家、三木たかしが2009年5月11日にこの世を去って丸8年になる。享年64というのは些か早すぎた別れであった。存命であればまだまだ新たな境地に挑んで傑作が生まれていたであろうと思うと惜しまれてならないが、それでも約2000曲といわれる遺された作品の数は決して少ない数字ではない。歌謡曲のみならず、映画音楽や舞台音楽の分野でも活躍した。手がけた楽曲のうち、シングルの総売り上げ枚数は2000万枚にも及ぶという。
三木たかしは本名を渡邊 匡(わたなべ ただし)といい、太平洋戦争の最中だった1945年1月に東京で生まれた。実妹が歌手の黛ジュンというのは有名だろう。黛は当初、本名の漢字を一部簡略化した渡辺順子名義でビクターからデビューしたもののヒットに恵まれず、新たな芸名で東芝からデビューしてスターに。ちょうどその頃、兄も作曲家人生をスタートさせている。そもそもは歌手を志して船村徹に弟子入りするも、作家の道を志すことを薦められたのだという。作詞家・なかにし礼の後押しもあり、作曲家としてのデビュー作となったのは1967年10月にクラウンレコードから出された泉アキの「恋はハートで/燃える年頃」だった。そして翌68年、妹の黛ジュンに書いた「夕月」がチャート2位を記録するヒットとなって一気に名声を高めることとなる。ちなみにそのひとつ前のシングル「天使の誘惑」のカップリング曲「ブラック・ルーム」も、渡辺たかし名義による三木の作品である。4人兄妹の中でもふたりは特に仲が良かったそうで、三木が亡くなってしばらく、黛がマイクを持たない日が続いたのは深い兄妹愛が伝わる出来事であった。1969年には森山良子に提供した「禁じられた恋」がチャート1位を8週に亘ってキープする大ヒットとなり、紅白歌合戦のステージでも歌唱される栄誉に浴した。
作曲家・三木たかし、そして歌手・石川さゆりにとっても代表作となった「津軽海峡・冬景色」は1977年の作品である。同作や「北の蛍」「夜桜お七」など、後に書いた演歌系の作品から、そのイメージが強いかもしれないが、同時期には「若き獅子たち」「ブーメランストリート」など、作詞家・阿久悠と組んで西城秀樹に7作連続でシングル曲を書き下ろしたり、キャンディーズに「哀愁のシンフォニー」(作詞:なかにし礼)を書いたりと、ポップス系の作品も数多く手がけている。アイドルへの作品提供はほかにも、あべ静江「みずいろの手紙」、伊藤咲子「乙女のワルツ」、岩崎宏美「思秋期」などがあり、これらはいずれも阿久とのコンビによる作品であった。凡庸なアイドル・ポップスに留まらない、情緒豊かでスケール感のあるメロディが際立った作品群といえる。一方でリズムに重きが置かれたものもあり、特に初期の作品ではグループサウンズがブームだった時代背景も伴ってか、ビートの効いたカッコいい楽曲も少なくない。その作風は実に多彩なのである。
生涯手がけた作品のうち、全体の5分の1ほどを共にした作詞家・荒木とよひさは、阿久悠やなかにし礼と並ぶ名パートナーであり、無二の親友でもあり続けた。コンビでの大ヒット作といえば、まずはテレビ朝日のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』から生まれた、わらべの「めだかの兄妹」。1982年12月に発売され、翌83年の年間チャート3位を記録する大ヒットに。続いての第2弾「もしも明日が…」は1984年の年間1位に輝くさらなるヒットとなった。そして同じ年にはテレサ・テンの「つぐない」に始まり、翌年にかけての「愛人」「時の流れに身をまかせ」の三部作がいずれも大ヒットへと至る。1984年という年は、三木たかしが作曲家として最も幸福な年であったことだろう。「つぐない」が当時日本でも人気があったフリオ・イグレシアスの「33歳」という曲をモチーフにして作られたことは、後に三木自身が語っているが、当然の如く自己のオリジナル作品としてしっかりと作り込まれている。ほかに意外なところでは全国高校サッカー選手権のテーマソング「ふり向けば君は美しい」、国民的アニメ主題歌「アンパンマンのマーチ」も三木の作品。天賦の才能に加えて努力も怠らなかった三木たかしがこれだけ多くの傑作を遺したのは必然だったかもしれない。今後もずっと、巷に三木メロディが流れない日はないであろう。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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