2017年01月27日

ピート・シーガーの自宅を訪ねた2011年のこと

執筆者:中川五郎

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本日、1月27日はピート・シーガーの命日となる。


ぼくがピート・シーガーの自宅を訪ねたのは2011年6月21日のことだった。マンハッタンから車で90分ほど、ニューヨーク州南東部、ハドソン川沿いのビーコンの街の近くの山の中にあるログハウスで彼はずっと暮らしていた。


ピートの自宅訪問が可能になったのは、両国にある東京フォークロア・センターの国崎清秀さんのおかげだ。国崎さんは1960年代の初めからピート・シーガーと交流があって、今度お家を訪問したいと手紙を出したところ、ぜひ来てくださいとピートから返事が来た。国崎さんはピートが中心になって40年ほど前から毎年6月に続けられているハドソン川クリアウォーター・フェスティバルの時期に合わせてピート家訪問を計画した。国崎さんはそれにぼくを誘ってくれ、ぼくも一緒に行けることになった。


ぼくは1960年代半ば、中学生の時にアメリカのフォーク・ソングに夢中になり、中でもピート・シーガーに強く影響を受けて、高校生になった頃から自分で歌を作ったり、人前で歌い始めた。そしてフォーク歌手としてあれこれ活動するようになってからも、ピート・シーガーはずっとぼくの師であり続けた。そのことを国崎さんもよくご存知で、ピートの家を訪問する時、ピート命のこのぼくに声をかけてくれたのだ。


それこそぼくにとってピート・シーガーはぼくの手本にして、目標、ぼくの生き方を決めた人物だから、その人の家を訪問して直接いろんな話ができるというのは、もうそれだけで言うことなしだ。まさにドリームス・カム・トゥルーだと言える。実際ピートはぼくたちをあたたかく迎えてくれ、お家で4時間たっぷり過ごし、いろんな話をしたり、歌を歌ってくれたり、バンジョーを弾いてくれたりした。天にも昇るような素晴らしい時間を過ごすことができた。しかしぼくにはピートに会えるなら、直接話をしてぜひとも許可を得たいひとつの相談事があった。それは『中川五郎、ピート・シーガーを日本語で歌う』というアルバムを作りたいというお願いだった。


1967年、ぼくが人前で歌うようになってから、ぼくは自分が最も影響を受けたピート・シーガーの歌を日本語にしていっぱい歌い続けてきた。「Waist Deep In The Big Muddy」、「Snow, Snow」、「My Name Is Lisa Kalverage」、「Sailing up my dirty Stream」「We Shall Overcome」などなど、その数は15曲か20曲近くになると思う。そうした日本語にしたピートの歌を集めてアルバムを作りたいと伝えたところ、彼の表情は一瞬何とも困ったような、戸惑ったようなものになった。そして「Beware(気をつけなさい)」と言って席を立つと、『Where Have All The Flowers Gone : A Singalong Memoir』(『虹の民におくる歌』という邦題で2000年に編集された日本語版が社会思想社から出版されている)という自分の著書を持って戻って来て、「ここを読んでみなさい」とページを広げた。


そこは『Guantanamera〜Translations Pro and Con, New Words to Other’s Tunes(グァンタナメラ〜翻訳の賛否両論、ひとの曲に新しい歌詞をつけること)』という第7章で、「『グァンタラメラ』のような素晴らしい歌は英語に訳さないようにとわたしはみんなに言い続けて来た」、「曲が難しすぎたりするのでなければ、どこの国のものであれ、もともとの言葉で歌ってみるようわたしはみんなに勧めて来た」と彼は書き、「よその人たちの言葉をちょっとでも覚えれば、その人たちの魂の中を垣間見れる」というロックウェル・ケントの言葉も紹介している。


ピートの目の前でその文章を読んでぼくは絶望的な気持ちになってしまったが、「それにもかかわらず、翻訳はどんな時も不可能というわけではない」と彼の文章は続いていて、ペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」の翻訳者が、「死んだ鷲よりは生きている雀の方がまし」と言って、翻訳に取り組んだというエピソードにも触れている。


そしてぼくが文章を読み終えると、ピートは「そうだ、この本には日本の女性の詩人の写真も載っているんだ」と言って、茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」を、いきなりアカペラで英語で全部歌ってくれた。片桐ユズルさんが英訳した「When I Was Most Beautiful」にピートが曲をつけたものだ。


つまりピートは翻訳は絶対にだめだと凝り固まった考えをしているわけではなく、ケース・バイ・ケースで、詩や歌詞の意味をきちんと伝えたい時は、自分の国の言葉に翻訳して歌うこともきちんと認めていたのだ。残念なことにピートの歌を日本語で歌うことについて、その場ではそれ以上突っ込んだ話をすることはできなかった。そしてぼくがピートの自宅を訪ねていろんな話をしてから2年6ヶ月後の2014年1月27日、彼は94年の生涯を終えてしまった。


「そんなのはだめだよ」とはっきり否定されてしまったかもしれないが、あの時ピートと彼の歌を日本語で歌うことについて、もう少し深く話をしておけばよかったと悔やまれてならない。そしてぼくは今もピート・シーガーの歌を日本語で歌うアルバムを作りたいという夢を持ち続けている。


≪著者略歴≫

中川五郎(なかがわ・ごろう):1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。アルバムに『終わり・始まる』(1969年、URC)、『25年目のおっぱい』(1976年、フィリップス)、『また恋をしてしまったぼく』(1978年、ベルウッド)『ぼくが死んでこの世を去る日』をリリースし、『そしてぼくはひとりになる』(シールズ・レコード)。著書に『未来への記憶』(話の特集)、『裁判長殿、愛って何』(晶文社)、小説『愛しすぎずにいられない』(マガジンハウス)、『渋谷公園通り』(ケイエスエス出版)、『ロメオ塾』(リトルモア)、訳書に『U2詩集』や『モリッシー詩集』(ともにシンコー・ミュージック)、『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、紀行文集『ブコウスキーの酔いどれ紀行』、晩年の日記『死をポケットに入れて』、『ブコウスキー伝』(いずれも河出書房新社)、『ぼくは静かに揺れ動く』、『ミッドナイト・オールデイ』、『パパは家出中』(いずれもアーティスト・ハウス)、『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)などがある。1月25日に最新アルバム「どうぞ裸になって下さい」をコスモス・レコーズからリリース。

ワールド・オブ・ピート・シーガー ピート・シーガー

虹の民におくる歌―『花はどこへいった』日本語版 単行本 – 2000/6ピート シーガー (著), Pete Seeger (原著), 矢沢 寛 (翻訳)

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