2018年09月03日
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2018年09月03日
ひょっとすると、普段の暮らしというか、営みとは遠い別のところで何かが起きている、それも大変なことが起きているかもしれない。そういう予感に襲われて落ち着かなくなり、ソワソワしてしまう。おなかの奥のほうで、わけがわからないものがうごめくような感覚が確かに存在する。ドノヴァンの音楽は、それを実感させてくれる一つだった。
1960年代半ば、ぼくが10代から20代にかけてのことだ。 「キャッチ・ザ・ウィンド」、「サンシャイン・スーパーマン」、「メロー・イエロー」、「ハーディー・ガーディー・マン」、「ラレーニア」、「バラバジャガ」、「魔女の季節」等々、ビートルズやボブ・ディランがくれた鍵で開けた扉のこちら側で、花たちが風に舞うぼくらだけの宇宙で、彼の歌声は、不思議な刺激と心地よさをともないながら響いていた。
サイケデリックだの、フォーク・ロックだの、ヒッピーだの、フラワー・ムーブメントだの、新しい言葉たちと一緒に、彼の歌は、空に浮かぶ雲たちのように、楽しそうに遊んでいるみたいだった。いま、こうやって振り返りながら、ドノヴァンのことを考えていると、大人になって失ってはいけないもの、大切なものを、彼の歌は、音楽は、教えてくれていたのかもしれないなと、思ったりもする。
1966年9月3日は、そのドノヴァンの「サンシャイン・スーパーマン」が、ビルボードの全米チャートで、1位に輝いた日だ。ちなみに、同日付のチャートで、一緒だったのは、2位がラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティ」、3位がハプニングスの「シー・ユー・イン・セプテンバー」、4位がシュプリームスの「恋はあせらず」、5位がビートルズの「イエロー・サブマリン」だった。つまり、そんな時代だ。
それまでのパイ・レコードからエピック・レコードへと移籍、その第一弾として発表されたのが同名のアルバム『サンシャイン・スーパーマン』で、彼が、英国のフォーク・シンガーという限られた存在から、世界へと広く飛び立つ契機ともなったアルバムでもあり、そこからのシングルでもあった。
デビュー当初、1964年から65年にかけての頃のドノヴァンは、ウディ・ガスリーやピート・シーガーの志を引き継ぐ一人だった。ランブリング・ジャック・エリオットと一緒に活動していたバンジョー弾きのフォーク・シンガー、デロール・アダムスを師と仰ぎ、コーヒーハウスやフォーククラブで歌っていた。
英国のボブ・ディランとも、永遠の吟遊詩人とも呼ばれるくらいだった。その後、プロデューサーのミッキー・モストとの出会いから、アレンジャーのジョン・キャメロンとの出会いから、ロックやジャズやブルースのミュージシャンたちとも交流をもち、一緒にレコーディングしたり、独自の世界を築いていく。
「バラバジャガ」でのジェフ・ベック・グループとの共演は有名だが、この「サンシャイン・スーパーマン」も、当時ヤードバーズを離れ、レッド・ツェッペリンを組む前のジミー・ペイジが参加、他に、スパイク・ヒーリーやボビー・オアのような、どちらかと言えばジャズのミュージシャンたちも演奏していた。
ちなみに、2011年6月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのドノヴァン公演に、ジミー・ペイジがゲストで花を添え、この「サンシャイン・スーパーマン」を一緒に演奏したらしいが、そのときの記事によれば、1966年1月のレコーディングでは、ギャランティとして13ポンドをペイジは受け取ったらしい。
スーパーマンやグリーンランタンなど、歌詞には架空のスーパーヒーローたちが登場するが、彼らへの敬意を払いつつも、大好きな女性への思いをつづるラヴ・ソングだ。ハープシコードを印象深く使い、エキゾチックでカラフルなそのサウンドは、文字通りの、サイケデリック・サウンドで、ドノヴァンが、フォーク・シンガーから抜け出し、ポップ・カルチャーそのものの真ん中に飛び込んだことを教えてくれるものでもあった。
ただし、契約上の問題でいろいろあったらしく、この曲が日の目を見るのは、レコーディングから半年以上も後のことだった。7月に米国で発売され、英国ではそれよりもさらに5カ月も遅れてのことだった。それでも、英国のチャートでは2位まであがって、彼の人気を決定づける。
随分まえになるが、初めてロンドンを訪れたときのことだ。真っ先に南ケンジントン地区を散歩した。博物館や美術館が立ち並び、その幾つかを覗くことも目的にあったが、若い頃、ドノヴァンの「サニー・サウス・ケンジントン」を聴いて、ひょっとしたら、スウィンギング・ロンドンに迷い込み、歌の中に出てくるジャン・ポール・ベルモンドやマリー・クワントやアレン・ギンズバーグなどと一緒に、サンシャイン・スーパーマンにも出会えるかもしれないような、そんな楽しそうなことを勝手に想像していたからだ。もちろん、その中の誰にも出会うことはなかったけれど。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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