2015年12月09日
スポンサーリンク
2015年12月09日
ぼくが高石ともやさんと初めて会ったのは、1967年3月のことだった。大阪市内の小学校を会場に借りて行われたベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)関係のベトナム戦争反対の集会に講演を聞きに行ったら、そこに偶然高石さんが歌いに来ていたのだ。もちろんぼくは高石ともやという存在をその半年くらい前から知っていて、会ってみたい、生でその歌を聞いてみたいという気持ちを強く抱いていた。67年の3月、ぼくは17歳、高校二年生から三年生になる春休みの時で、高石さんは1941年12月生まれなので、その時25歳だった。
高石さんと初めて会った時のことを、ぼくは1969年4月に出版された高石友也さん(当時の表記)、岡林信康さん、そしてぼくの三人の共著『フォークは未来をひらく』の中で次のように書いている。当時のリアルな気持ちがそこには綴られている。
「(高石友也さんは)その時『風に吹かれて』、『学校で何をならったの?』、『戦争の親玉』、『死んだ女の子』等をうたい、ぼくはそれらのうたを聞いて感激するやら、びっくりするやらで、かれがうたい終ると早速話をしに行った。
ぼくはかれのうたを聞いている時、からだのふるえがとまらなかった。これはかれのすばらしいうたによるのだが、自分がやりたかったことをやっている、自分が訳してひとりでうたっていたうたと同じものをうたっている、つまり『同じようなことをしているな!』という嬉しさと、少しの羨望の混じった感情も作用したようだ。
その日、ぼくは高石友也におどおどと話しかけ、フォークソングについて、平和運動について話し、『ぼくもうたを作ってうたっている』と言うと、こんどYMCAで小さなフォークの会があるから、うたいにおいでとかれは言ってくれた」
そしてそれをきっかけにしてぼくは高石ともやさんにつれられていろんな場所で歌うようになった。
ぼくがアメリカのフォークソングに強い関心を持ち始めたのは中学生の頃で、最初はブラザーズ・フォアやキングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリーといったモダン・フォーク・コーラス・グループから入っていった。やがてぼくの関心は彼らが歌っている歌を数多く作っているウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ボブ・ディランといったフォーク・シンガーたちへと移っていった。
中でも1966年の夏に日本盤が発売されたピート・シーガーの『カーネギー・ホール・コンサート/We Shall Overcome Recorded Live at His Historic Carnegie Hall Concert June 8, 1963』というアルバムとの出会いは衝撃的だった。この一枚のアルバムがぼくの将来を決定づけたと言っても決して過言ではない。
そして高石さんもまたそうだったようで、前述の『フォークは未来をひらく』の中で、次のように述懐している。
「高石がプロになる前、鉄筋屋の頃、はじめて自分でLPレコードを買った。ピート・シーガーの『We Shall Overcome』だ。プレーヤーも持っていなかったのに、ピート・シーガーとの初めての出会いだ。ベースの伴奏なしでギターだけで歌うところが、自分と似ていたのを喜んだものだ。その時、日本語をあてはめて、まずうたってみたのが『学校で何を習ったの?』と、『ちっちゃな箱』だった。当時、PP&M、キングストン・トリオなどの、カタカナ英語フォークソングの全盛期で、この二つの歌は、特にことばを聞いてもらいたくて、日本語をあてはめてみた。そのため、メロディーが変えられるほど犠牲になった」
高石さんと実際に出会う前、ぼくはこれらの歌を深夜放送のラジオなどを通じて聞いていて、「あっ、自分と同じことをしている人がいる!!」と、複雑な思いにとらえられていたのだ。
高石さんと知り合い、一緒にいろんな場所で歌うようになってから、ぼくは次々と新しい歌を作ったり、アメリカのフォークソングを日本語に訳したりした。そしてそれらの歌が高石さんに取り上げられて歌われるようになった。「受験生ブルース」、「主婦のブルース」、「腰まで泥まみれ」…。もちろん自分が歌いたいという思いも強くあったが、自分の関わった歌が高石さんに取り上げられて広がっていくことはとても嬉しかった。
1968年の後半あたりから、いわゆる「関西フォーク」と呼ばれる高石さんや岡林信康さんなどの歌がとてももてはやされるようになり、それと時を同じくして、高石さんに対する批判もあちこちで飛び出すようになった。ぼくも高石さんとはだんだん疎遠になっていき、「歌を盗られたから不仲になった」とわかったようなことを言う人たちもいたが、もちろん一緒に活動をしなくなったのはそんな理由からではなかった。
それから高石さんと会わない期間がとても長く続いた。しかし1999年に藤村直樹さんが京都の円山公園野外音楽堂で開催した「京都フォーク・キャンプ・コンサート」でほとんど30年ぶりに再会を果たし、それからは毎年のようにどこかで会って、一緒のコンサートに出演したりしている。昨年2014年の高石ともやさん年末恒例の「年忘れコンサート」では、東京でも大阪でもゲストで呼んでもらい、何と「受験生ブルース」をデュエットしてしまった。
ぼくにフォークソングを教えてくれたのがピート・シーガーなら、ぼくを人前で歌うことへと導いてくれたのは高石ともやさんだ。いつになっても8歳の年齢差は縮まらないので、「仲間」というよりは「大先輩」という畏れ多い感覚からはどうしても抜け出すことができないが、できることならこれからもっともっと一緒にいろんなことをしたいとぼくは願っている。
http://amzn.to/1jLkeew
1966年9月3日は、ドノヴァンの「サンシャイン・スーパーマン」がビルボードの全米チャートで1位に輝いた日だ。それまでのパイ・レコードからエピック・レコードへと移籍、その第一弾として発表されたの...
本日、8月7日は、「第3回全日本フォークジャンボリー」が47年前に開催された日である。“サブ・ステージで「人間なんて」を歌っていた吉田拓郎が観客をあおってメイン・ステージへなだれ込ませた”という...
1966年、朝日ソノラマから出た『Peter, Paul & Mary~フォーク・ギター研究』という教則本にはとてもお世話になった。各パートの楽譜とタブ譜(タブ譜自体がまだ非常に珍しかった)、丁...
マリー・トラヴァース(Mary Travers)は1960年代、目を見張るようなブロンドの髪を風になびかせ、自由と平等と平和、そして時代の変革を力強く歌っていた。ピーター・ポール&マリーがボブ・...
4月27日は、平日は医師、週末は歌手というウィークエンドシンガーとして最後まで活動を続けた藤村直樹の命日。享年62歳。text by 緒川あいみ
本日、1月27日はピート・シーガーの命日となる。ぼくがピート・シーガーの自宅を訪ねたのは2011年6月21日のことだった。マンハッタンから車で90分ほど、ニューヨーク州南東部、ハドソン川沿いのビ...
五つの赤い風船と初めて出会ったのはいつのことだったのかはっきりとした記憶はないが、恐らく1968年になってから行われたフォーク・コンサートのひとつでだったと思う。風船のメンバーの中でもぼくはギタ...
11月23日は小室等の誕生日。今年で72歳というのが当然のような気もするし、信じられないような気もする。小室等を知ったのは1960年代、彼は20代たったけれど当時から老成した雰囲気があった。その...
第1回全日本フォークジャンボリーはいわゆる「関西フォーク」のひとつの頂点を示すものとして捉えられ、その後も70年、71年と規模を拡大して続けられていくが、ぼくにとっては、終わりの始まりとして強く...
1969年8月1日、会員組織による配布に限られていたURCレコードが、一般販売を開始した。発表されたのは『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断罪せよ』と五つの赤い風船の『おとぎばなし』の...
今日7月22日は元ちとせのアルバム「平和元年」の発売日。 このアルバムに収められている12曲、すべてが反戦歌だと私は解釈している。 その楽曲達は1940年代~1980年代、時代のうねりの中で歌い...
1969年の6月28日、新宿駅西口地下広場でのフォークゲリラ集会に道路交通法を適用した機動隊が突入した。 地下広場や地下通路、駅前や商店街の路上などでフォークソングを歌うフォークゲリラと呼ばれ...
1970年の本日、岡林信康のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』がリリースされた。今年で45周年ということになる。
西岡恭蔵は、1948年の今日(5月7日)、三重県志摩半島に生まれた。日本フォーク&ポップス史にその名を刻むシンガーでありソング・ライターである。 text by 篠原章