2017年09月05日
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2017年09月05日
この原稿を依頼されて、数十年振りに、『浅川マキの世界』を、LPレコードとCDとを交互にして、何度も聴いた。いつの間にか、1968年から70年にかけてのあの熱い時代に、舞い戻ったような気分になった。
1967年、ビクターから出した浅川マキのデビュー・シングル「東京挽歌」は、不発に終わった。当時、こちらは音楽業界に入ったばかりの宣伝担当で、浅川マキにくっついて全国キャンペーンに行ったりしただけだったが、おかげで音楽業界の仕組みを知り、半年間の沈黙のあと、プロデューサーとして、浅川マキを売り出す決心をした。いわば、浅川マキとのリベンジである。
シャンソン喫茶「銀巴里」で、浅川マキを見て聴いてくれた、寺山修司が「立ち姿と声がいい」と言ってくれたので、1968年、天井桟敷『新宿版・千夜一夜物語』に、出番は少なかったが、印象的な役で出してもらった。そこから、マキともども寺山修司と濃い関係になり、68年12月14日から16日まで、寺山修司 構成演出で、新宿アンダーグラウンド シアター 蠍座で『浅川マキ三夜連続公演』をやった。夜10時開演という深夜公演だったが、毎夜、ドアが閉まらないほどの熱狂的なライブ公演となった。
この公演のために、寺山は、「かもめ」をはじめ13曲の詩を書き下ろした。それを、山木幸三郎が曲をつけ、マキが歌った。事前に、天井桟敷の話題とからまりあって、前評判もよかったので、東芝レコードとしめしあわせ、2チャンネルだったが録音機材を持ち込み、3夜とも録音することにしていた。密閉されたスタジオで音を録るのではなく、ライブ感が欲しかったからである。
最終日の最後の曲、10分近くもある「ロンググッドバイ」が終って、マキが舞台から去っても、「マキ~」という声と拍手が鳴りやまない。客席の後ろの立見席で見ていた寺山修司と、人の頭越しに眼を見交わせて、うなずきあった。「浅川マキ」という歌手が生まれた瞬間だった。
当時の日本のレコード界は、シングル盤が主流で、そのヒットシングルをまとめてLPアルバムにするというのが定石で、LPレコード アルバムはアメリカからの輸入盤がほとんどだった。こちらは、マキともども「ジャズ喫茶」でジャズ アルバムに嵌った方なので、はじめから蠍座公演をLPアルバムにして出すつもりだったが、東芝からブレーキがかかり、69年7月に「夜が明けたら/かもめ」、70年2月、「ちっちゃな時から/ふしあわせという名の猫」というシングル盤を出した。
その間、「夜が明けたら」が学園闘争真っただ中の大学のバリケードの中から、ニッポン放送の深夜番組に連夜リクエストがあったり、「かもめ」が、新宿、池袋界隈のバーや居酒屋のジュークボックスで聴きまくられ、また、蠍座での連続公演をやったりして、いつの間にか「アングラの女王」などと新聞紙上でも書きたてられ、ようやく浅川マキのアルバム待望論が出始めるようになった。
ライブ・レコーディングをした蠍座公演から1年半以上も経っているし、その間、「夜が明けたら」も「かもめ」、「ふしあわせという名の猫」もシングル用に、スタジオ録音もしている。
浅川マキとは、「東京挽歌」の全国キャンペーン行脚をはじまりに、蠍座公演の成功、寺山修司との裏表の関係、マスコミとのやりとりなど、まるで添え木のようにかかわりあってきたので、深い信頼関係のようなものが出来ていた。ので、ほとんどこちらに任せきりという塩梅で、アルバム制作に取り組んだ。
いま、眼の前の歌詞カードを見てみると、作詞作曲は別にして、編曲:山木幸三郎、構成演出:寺沢 圭(注:蠍座実況録音曲構成:寺山修司)となっている。この寺沢 圭というのが自分である。
いま考えてみると、単に曲を並べるだけじゃなく、浅川マキをひとつの演劇舞台に立たせるような時代と時間を演出したかったような気がする。越路吹雪をスターダムに押し上げた東芝の渋谷森久ディレクターと練りに練って、あの頃、ミュージック・コンクリートとかいったスタイルで、まさに1970年(昭和45年)の現実の都会の息吹をからめとるように、赤ん坊の泣き声にかぶるバイクの音とか、浅川マキに質問を投げかける人たちの吐く息まで、収録して曲間を埋めた。
「夜が明けたら」と「ふしあせという名の猫」の間には、ジェット機の離陸する音が欲しくて、横田の米軍基地まで行った。「雪が降る」と「愛せないの愛さないの」の間に、子供や男や女からマキに質問が浴びせかけられるのだが、男が「娼婦になりたいと思ったことある?」という質問に、浅川マキは「うん、ときどきね」と答えている。
楽曲的に拘ったのは、アルバムの1曲目に入る「夜が明けたら」は蠍座録音のものにしたのと、TBSの加藤節夫さんの北山 修の番組にマキがゲストに出たのをきっかけに、マキ自身が北山に頼んで出来た「赤い橋」を入れたことだろう。
話題満載の異色アルバムとして、満を持して発売したが、3万近くのバックが来たもののあまり数字は伸びなかった。結局、新宿発のアンダーグラウンドの女王でしかなかったのか、こしらえ過ぎたアルバムだったせいなのか、それともマキファンには、3,000円という値段が壁になったのか、とも思ったが、「浅川マキを聴く会」なんていうのを作って、全国ツアーをするようになって、5年のうちに30万枚を超え、東芝のセールスマンから「ロングセールスの女王」とか呼ばれた。
「東京挽歌」「夜が明けたら/かもめ」写真提供:鈴木啓之
≪著者略歴≫
寺本幸司(てらもと・ゆきじ): 音楽プロデューサー等。浅川マキ、桑名正博、りりィ、南正人など、多くのアーティストを手がける。
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