2017年11月14日
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2017年11月14日
本日11月14日は、埼玉県民の日。1971年(昭和46年)の同日に、明治維新の廃藩置県により埼玉県の歴史が始まって100周年を記念して制定され、公立学校が休みになったり、県内を走る私鉄が乗り放題になる一日乗車券が発売されるなど、記念事業が行われている。もっとも、埼玉県在住歴が合計31年にも及んでいる筆者は、なぜか一度もその恩恵を受けたことがないのであるが。
というわけで、前回の登板では、埼玉県朝霞市が誇る歌姫、本田美奈子.の業績を振り返ってみたわけですが、埼玉県民の日ということでまたまたお鉢が回ってきました。埼玉県と音楽界の関係について、気ままに振り返ってみたいと思います。
まずは、埼玉県出身のミュージシャンから。皆さんはまず誰を連想しますか? 最近では椎名林檎や星野源が、実は埼玉県出身だし、元モーニング娘。の吉澤ひとみ(三芳町出身)や、ももいろクローバーZの有安杏果(富士見市出身)は、町をあげて愛されるアイドルとなった。しかし、最も埼玉を感じさせるアーティストは誰かと言われると、筆者の一推しは大宮市(現・さいたま市)が産んだGS、ザ・テンプターズに尽きる。特にギターの年長組3人が醸し出す、どこかワルっぽいけど、友達になったらとことん親しんでくれそうなその雰囲気は、いかにも埼玉的カラーで、東京や横浜が産んだGSとは異質だった。他には、同じく現・さいたま市だがこちらは浦和出身のタケカワユキヒデ(ゴダイゴ)、坂戸市出身のキリンジ・堀込兄弟、川口市出身の知久寿焼(たま)あたりも忘れちゃいけないところ。
続いては、埼玉を舞台にしたご当地ソング。これはもう、さいたまんぞう「なぜか埼玉」(81年)以外思い浮かぶ人がいないのではという寂しい状況だ。この一曲が埼玉県に対するネガティヴキャンペーンの象徴のように思われている節もあるけれど、調べてみれば何とオリコン最高100位、チャートに1週入ったのみである。他にも、ビートたけしがムード歌謡に挑んだ「修善寺で別れた大宮の女」(97年)とか、音楽ゲーム「太鼓の達人」で火がついた「きたさいたま2000」、さらにご当地音頭としてはあまりにもネジが外れた美沢のぞみ「SAITAMA・夢・音頭」(02年)のようなネタ的楽曲しか連想しない人もいるのでは。しかし、実は絶景で知られる渓谷の町・長瀞を舞台とした秋美子「長瀞旅愁」(72年)なんて隠れた名曲もあるし、今では伝説となった大宮のライヴハウス、フリークスを題材にした「大宮サンセット」(01年)をスピッツが作ってもいる。行田市出身のシンガーソングライター・潮崎ひろのが歌う、同地が誇るB級ローカルグルメへのトリビュートソング「もちもちゼリーフライ」も、探してみて損はしない一曲。
もう一つ、埼玉産の音楽作品として忘れてはならないのが、1973年リリースされた細野晴臣の初ソロアルバム『HOSONO HOUSE』だ。当時、狭山市にあった元米国兵居住地区に住んでいた細野が、その自宅に機材を持ち込み作り上げた、宅録ならではのハートウォーミングなサウンドが魅力的なアルバムである。エンジニアの吉野金次は、このアルバムにつきっきりで作業している間、沢田研二「危険なふたり」のミキシングという絶対外すことができない仕事を与えられたため、細野宅でのレコーディングの合間を縫ってミックスを完成させたという逸話が残っている。つまり、あの大ヒット曲もミックスだけは埼玉製と、そういうわけだ。
かつての「ダサいたま」というイメージも、サッカーチームの活躍などで遠い昔のものとなりつつあり、筆者もそんなレッズのホームグラウンド・埼玉スタジアムで行われたインディーズフェス「ぐるぐる回る」の運営に関わるなど、地元に密着したイベントに協力する機会が増えてきているが、東京に頼らなくっても別にという熱意は年々増しているように思う。むしろこれからが勝負どころと思わずにいられない、埼玉のミュージックシーンに是非注目を。
さいたまんぞう「なぜか埼玉」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 5月3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月25日発売された。
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