2018年03月08日
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2018年03月08日
ザ・ドリフターズのメンバーにして、日本を代表するおデブキャラのひとり、高木ブーは、何も出来ないけれども愛すべき存在として、グループの一員であり続けてきた。“第5の男”ともいうべきポジションで、そのタイトルでの著書もある。代表作はやはりアドリブ混じりでいい味を出していた“雷様”のコントであろうが、それ以上に近年は従来のウクレレ奏者としての活躍でも知られ、自身のアルバムリリースのほか、若手アーティストとのコラボも多い。リーダーのいかりや長介亡き後はドリフの最長老となっている高木ブーこと本名・高木友之助は1933年生まれ。本日3月8日に85歳の誕生日を迎えた。
東京生まれの高木がウクレレと出会ったのは中学3年の時。大学卒業後は決まっていた就職先を蹴ってプロのミュージシャンとなり、高木智之の芸名で自身のバンド“高木智之とハロナ・セレナーダス”“高木智之とハロナ・リズム・コーラス”を率いて進駐軍キャンプなどで演奏した。ジェリー藤尾のバンドでバンジョーを担当していたこともあるという。そんな中、ドリフターズの新リーダーとなっていたいかりや長介(当時はまだ碇矢長一)と前リーダーの桜井輝夫にスカウトされ、64年にピアニストとしてドリフターズに参加する。その後、渡辺プロに移籍してメンバーも固まった66年春に心機一転で高木ブーの芸名を名乗ることに。その際に碇矢長一もいかりや長介となった、当時のメンバー、荒井注、仲本工事、加藤茶、それぞれの芸名の名付け親は事務所の先輩、クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇であった。若い頃から肥満体型だった高木は、もともと仲間内で“ブーたん”と呼ばれていたらしい。
ザ・ドリフターズがブレイクするきっかけとなったヴァラエティ番組『8時だョ!全員集合』では加藤茶の活躍が著しく、荒井注脱退後に新メンバーとなった志村けんもヒットネタを出したり、仲本工事も得意の体操などでいぶし銀の活躍を見せていた。しかし高木はこれといった持ちネタもなく、脱退説が流れたこともあったが、リーダーのいかりやは一度も辞めさせることを考えなかったという。どこでも寝られるのが特技で、本番中に眠ってしまういじられキャラの高木がようやく当たり役をものにしたのはかなり遅く、TBSの『~全員集合』が終わった85年、フジテレビ『ドリフ大爆笑』でいかりやらと共に演じていたコントがシリーズ化された頃。それがおなじみ雷様のコントである。アドリブで意外な毒舌を吐いたりする高木の横で苦笑する長さんの姿がまた妙に面白く、当初スタッフが意図したものとはちょっと異なる形で人気を得ていったに違いない。ドリフターズ第5の男、高木ブーが遂に掴んだ主役(?)の座であった。常に飄々としてマイペース、そんな高木の不思議な存在感に目を付けたのが大槻ケンヂがヴォーカルのバンド、筋肉少女帯で、インディー時代の87年に「高木ブー伝説」を発表。メジャー展開後の89年には「元祖高木ブー伝説」としてヒットさせる。クレームをつけてもおかしくない歌への高木の対応も実に寛容で、若いミュージシャンを応援しようという気概に満ちていたそうだから素晴らしい。
遅咲きの高木はさらなる活躍を見せる。もともとハワイアン・ミュージックに傾倒して芸能界入りした高木は、昭和から平成になった頃から原点回帰を見せ、ミュージシャンとしての顔がクローズアップされてゆく。特に中学時代から手を染めたウクレレは天下一品であり、学生時代の仲間とともに“高木ブーとニュー・ハロナ”を結成して演奏活動に勤しんだ。2001年から5年ほどは、麻布十番でハワイアンバー「Boo's Bar HALONA」を経営してウクレレ教室を開いたりもしている。CDリリースも盛んで、96年のアルバム『Hawaiian Christmas』を皮切りに、97年にはホフディランが楽曲提供した「GOOD!」に、99年は吉田拓郎作曲の「僕の大好きな場所」とヴォーカルも披露。モーニング娘。の曲をハワイアンアレンジした2002年の『ハワイアンで聴くモーニング娘。シングルコレクション』も話題となった。最近では2016年にももいろクローバーZと共演したのも記憶に新しいところ。
1966年に東京・日本武道館で行われたビートルズの来日公演の際にザ・ドリフターズの一員として前座を務めた輝かしい実績も忘れてはいけない。思えば「ドリフのズンドコ節」などメンバーが交互に歌う曲でも高木は抜群のリズム感と独特な甘い美声で存在感をアピールしていた。一見地味だがドリフにとってはなくてはならない高木ブーを大事にしたいかりやの慧眼を改めて想う。そして何より、高木はグループ一の愛妻家であった。30年以上連れ添った最愛の妻を94年に亡くしてからは、愛娘の家族と共に暮らしているそうで、離婚も再婚もせずに一人の女性と添い遂げたのはドリフで唯一高木だけ。そんな事実も踏まえて、心優しき男の弾く穏やかなウクレレの旋律は最高の癒しをもたらしてくれる。仲本工事、加藤茶とのゆるユニット“こぶ茶バンド”のステージもまた観せて欲しい。
「ドリフのズンドコ節」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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