2015年10月04日
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2015年10月04日
昭和のテレビ史に欠くことの出来ないバラエティ番組『8時だョ!全員集合』がTBSでスタートしたのは1969年10月4日のこと。それまでにも東宝と松竹での映画主演作、テレビでも『ドリフターズ ドン!』や『進め!ドリフターズ』といった冠番組のある人気グループではあったものの、お茶の間での人気を決定的にしたのはやはりこの『8時だョ!全員集合』の成功にあったといえる。タイトルの“全員集合”は、『なにはなくとも全員集合!!』(67年)に始まる松竹映画の主演シリーズありきのネーミングだった。番組が放映されていた土曜8時枠は裏のフジテレビ『コント55号の世界は笑う!』が人気を博していたが、ドリフの猛追により視聴率が逆転。その後も番組は85年まで続く中で、フジの『欽ちゃんのドンとやってみよう!』~『オレたちひょうきん族』との熾烈な視聴率争いが繰り広げられ、“土曜8時戦争”と呼ばれてテレビ界の語り草となる。
所属した渡辺プロダクションの先輩、ハナ肇とクレージー・キャッツがそうであったように、ザ・ドリフターズもそもそもはバンド活動が主だった。56年にウエスタンバンドとして結成された時の名前は“サンズ・オブ・ドリフターズ”といい、ロカビリー時代のスターとなる山下敬二郎や、坂本九、井上ひろしらも在籍していた。その後、“桜井輝夫とザ・ドリフターズ”となっていた62年に、“ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ”のベーシストだったいかりや長介(当時は本名の碇矢長一名義)が加入し、やがてリーダーを受け継いで“碇矢長一とザ・ドリフターズ”となる。この時のメンバーには加藤茶や小野ヤスシがおり、小野らが独立して“ドンキー・カルテット”を結成した後も加藤はドリフに残った。さらにメンバーの入れ替わりがあり、荒井注、高木ブー、仲本工事が揃って、一般的に知られる“ザ・ドリフターズ”の布陣が揃うのは東京オリンピックが開催された64年である。ドリフターズとクレージー・キャッツには直接の師弟関係はないにせよ、メンバーのそれぞれの芸名はクレージーのリーダー、ハナ肇の考案であったという。正式に渡辺プロ所属となった65年を境にバンドマンから芸人のポジションへと転化してゆくが、並行して独自の音楽世界も築き上げてゆく。66年にビートルズが来日した際、武道館公演で前座を務めたことは広く知られるところ。他にブルー・コメッツやブルー・ジーンズ、内田裕也、尾藤イサオらも出演したが、ビートルズと同じメインステージで演奏したのはドリフだけ。それは単なる間違いだったそうだが、結果的に歴史に残る1シーンとなった。曲目は仲本工事のリードヴォーカルによる「のっぽのサリー」であった。
レコード・デビューは意外と遅く、68年6月に出された「ズッコケちゃん」が最初。これはカップリングの「いい湯だな」の方が有名だろう。「いい湯だな」はデューク・エイセスが日本全国のご当地ソングを歌った<にほんのうた>シリーズの1曲として発表したのがオリジナルであるが、ドリフが『8時だョ!全員集合』のエンディングで毎回歌ったことですっかり定着したため、彼らのオリジナルと思われているかもしれない。この2曲はいずれも、クレージー・キャッツの一連の作品を手がけていた萩原哲晶がアレンジを担当している。歌では先輩のクレージーに絶対叶わないであろうと判断したスタッフ陣が、ドリフのレコードはカヴァーに拘ろうという方針を定めた判断は正しく、このあと民謡や俗謡、童謡などが再生されてのヒットが続いてゆくことになる。2枚目の「ミヨちゃん」以降、一貫してアレンジを担当した川口真の功績は大きい。『8時だョ!全員集合』開始後に出された3枚目の「ドリフのズンドコ節」が爆発的な大ヒットを記録し、翌70年にはレコード大賞大衆賞を受賞している。ちなみにこの時一緒に同賞を受賞したのが藤圭子だった。
以降も「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「誰かさんと誰かさん」などヒットを連ね、テレビ番組での人気と相俟って、ドリフの歌うコミックソングは広く親しまれた。荒井注が脱退し、その後新加入した志村けんによる「東村山音頭」がヒットしたのは76年。この辺りになると、番組の音楽を担当していた、たかしまあきひこの活躍が著しい。人形劇『飛べ!孫悟空』の主題歌「ゴー・ウエスト」や「ドリフの早口ことば」も氏の作・編曲によるものである。「ゴー・ウエスト」のB面に収められた「ドリフのズンドコ節」は荒井のパートが新たに録音された志村のものに差し替えられたレア・ヴァージョン。
『8時だョ!全員集合』のおなじみのオープニングテーマの原曲が「北海盆唄」であったように、やはりドリフのコント番組の代名詞といえるフジテレビの『ドリフ大爆笑』のオープニングテーマも、初期は「月月火水木金金」、後には「隣組」という戦時歌謡の替え歌が使用され、ドリフターズが偉大なるカヴァー・グループであることを証明した。「ズンドコ節」や「ほんとにほんとにご苦労さん」の元歌カヴァーが収録されている『ドリフの軍歌だよ全員集合!!』は、その真価が発揮された傑作アルバムである。
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