2018年10月02日
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2018年10月02日
洋楽アーティストの知名度の内外格差はいまにはじまったことではないが、トム・ペティは日本ではあまりにも知られていない。(YouTubeでのヒット曲のビューは軒並み1,000万回以上)。
レコード会社がうまくプロモーションできなかったからか、彼の音楽が日本人にとってなじみにくかったからか、理由はよくわからないが、音楽の素晴らしさに比して日本での人気が低すぎるのだ。
ポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの時期、彼らの音楽にその感覚がまったくなかったわけではない。しかしそれ以上に伝統的なスタイルのロック・バンドとしてデビューしたことで、初動時にメディアで紹介されにくかった、ということはあったかもしれない。洋楽の新人は、わかりやすいキャッチ・フレーズがないと、なかなか認知されにくいからだ。
それ以後も、アメリカでは高く評価されてきたから、アルバム発表のたびにプロモーションされたと思うのだが、なぜかザ・バンドやローリング・ストーンズにも通じる彼らのコクのあるルーツ・ロックの魅力が伝わらなかった。英語の歌がすぐにはわからないことが理由のひとつだったこともあるだろうが、英語でヒットする音楽は他にいくらでもあるから、それだけが理由ではないはずだ。
彼の歌声はかん高くシャウトするものではなかったし、うなるようにどすをきかせるスタイルでもなかった。華麗なギターを弾きまくったり、メンバーのソロ回しで盛り上がったりするような音楽でもなかった。つまりロック=派手な音というイメージからすると、地味な印象を受けやすいものだった。
しかしていねいに織りなされたサウンドには独特のグルーヴがあり、彼の歌声には心のひだを表現できる味わいがあった。わかりやすい芸能色のある音楽が一般的に受け入れられやすいのは、いつの時代も変わらない。その芸能色をサービス精神と言う人もいる。しかし人にはそれぞれ得意不得意がある。サービスの仕方にもいろんな選択肢があっていい。形だけ目立つ演出に頼るより、音楽そのものを聴いてくれ、というのが彼の姿勢だった。
彼はレコード会社に厳しく、音楽を愛する仲間に優しかった。レコード会社が彼のアルバムの価格を勝手に値上げしようとしたときは反対して止めさせた。他の人気グループが彼の作品に似た曲を発表しても、よほどのことがないかぎり、ロックの伝統なんてそんなものさと、鷹揚にかまえていた。
自分のグループのハートブレイカーズを離れて、ボブ・ディラン、ジョージ・ハリスン、ロイ・オービソン、ジェフ・リンといったそうそうたるメンバーとトラヴェリング・ウィルベリーズで活動した時期もあったが、メンバー全員、音楽そのものの評価が高い人たちだ。見た目はおやじぽいが、年輪を重ねて身につけた渋さがある。いわゆるお洒落な洗練ではないが、そういう味もまた洗練の一つのあり方なのだ。
昨年の10月2日、67歳の誕生日を迎える少し前に亡くなった彼は、晩年、沢山の薬を飲んでいた。一時期耽溺していたヘロインではなく、足腰の神経の痛みをこらえるための鎮痛剤だった。心の痛みを持つ人に音楽で語りかけることができた人だったが、自分の体の病気にはなすすべがなかったらしい。鎮痛剤を飲みすぎたのがよくなかったというのが悲しい。
≪著者略歴≫
北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』『ロック史』など。
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