2017年05月24日
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2017年05月24日
昨2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが受賞した。フォーク・シンガーのディランがノーベル文学賞なんてと、青天の霹靂のごとく驚いた人もいたかもしれない。しかしボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するかもしれないという噂はもう10年以上も前から毎年伝わってきていた。イギリスではノーベル文学賞が賭けの対象になっていて、今年のディランの人気はどれぐらいかというブックメイカーの情報も毎年届いていた。
10年以上も前といえば、ぼくは2005年の秋にソフトバンク クリエイティブから『ボブ・ディラン全詩集 1962—2001』という翻訳書を出版していて、これは2004年にアメリカのサイモン&シャスター社から出版された『Bob Dylan LYRICS 1962—2001』を全訳したものだった。そのタイトルからもわかるように、ボブ・ディランが1962年から2001年までのほぼ40年の間に発表した352曲の歌の歌詞が収められている。
ソフトバンクから出版された日本版は、352曲の英詞が収められている610ページの原書と、それらの曲をぼくが日本語に翻訳したものを収めている700ページの翻訳書の二冊が函に入っているもので、そのボリュームはかなりなものとなり、当然それは価格にも反映されて、税抜きで8800円というちょっとやそっとではなかなか手が出ないとても高い定価がつけられてしまった。それゆえ売れ行きはなかなか厳しいものがあったのだが、この翻訳書が出版されてすぐにも、毎年秋になるとボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するかもしれないという噂が届き始め、もし受賞したらいくら高い本でも現状で日本で手に入るディランの歌詞を翻訳した本はこの一冊しかないのだから、きっと飛ぶように売れることになるかもしれないと、欲深な夢を見たりしていた。言い方を変えれば、この本を売るチャンスはディランがノーベル文学賞を受賞した時ぐらいしかないということだ。
その後毎年秋になるとボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞するかもしれないという話が出たものの、もう10年以上「やっぱりだめだった」という結果に終わり、そうこうするうちにソフトバンクからの『ボブ・ディラン全詩集 1962--2001』も、いつのまにか絶版になってしまった。すると何とも皮肉なことに、2016年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞して、「文学賞はディランだ。ディランの文学とは何なんだ? 彼の本や詩集はどこにある?」とみんなが騒ぎ始めたものの、『ボブ・ディラン全詩集 1962--2001』は絶版になって久しく、ノーベル文学賞受賞に輝いても増刷されることもなかった。まさに千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。
しかし考えようによっては、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した時、彼の歌詞を日本語に翻訳した『ボブ・ディラン全詩集 1962—2001』が入手できない状況だったというのはよかったことなのかもしれない。というのもディランがノーベル文学賞を受賞した時、その受賞理由まできちんと確かめないで、「ディランがノーベル文学賞?」、「彼の歌詞が文学なのか?」、「彼の詩を読まなくちゃ。本はないのか?」と早とちりして、ディランの歌そのものを聴こうとしないで、彼の言葉だけを、それも活字で体験しようと考える人たちが現れたからだ。確かに外国の作家がノーベル文学賞を受賞すると、本屋にはその作家の翻訳本がずらっと並べられ、すごい勢いで売れたりする。中には「ディランのどの本がノーベル文学賞に選ばれたの?」と、勘違いも甚だしい人もいた。
ノーベル文学賞を選ぶスウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は、2016年のノーベル文学賞をボブ・ディランに与える理由として、「ディランは偉大なアメリカの歌の伝統の上に新たな詩的表現を作り出した。ディランの詩は耳で楽しむもの、ホメーロスやサッフォーの時代から詩はもともと楽器と共に聴かれるものだった」と、ディランの歌そのものが「文学」であり、受賞の対象なのだと説明している。文学の定義はさておくとして、ディランの何が文学なのかを知りたければ、彼の歌詞だけを読むのではなく、歌そのものを聴かなければならないということだ。ノーベル文学賞を受賞したということで、初めて、あるいは改めてボブ・ディランに興味を抱いた人は、何はさておきすぐに手に入る彼の歌の数々に耳を傾けてほしい。
とはいえボブ・ディランの歌を聴く時の、あくまでもひとつの手引き、参考になるガイドブックとして、彼の歌詞が全部翻訳された本があるのはいいことだと思う。アメリカでは2014年に、1962年以前の歌詞や2001年以降現在までのボブ・ディランの新たな歌詞が追加された『Bob Dylan LYRICS 1961—2012』という増補完全版詩集がやはりサイモン&シャスター社から出版されている。ぼくは2001年以降のディランの歌詞も全部翻訳しているので、材料はすべて揃っている。どこかぜひともこの本の翻訳権を取って日本で出版してはくれないだろうか。すでに千載一遇のチャンスは逃してしまったので、できることならみんなが手に入れやすいうんと優しい価格で出版されたりするといいのだが…。
≪著者略歴≫
中川五郎(なかがわ・ごろう):1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。アルバムに『終わり・始まる』(1969年、URC)、『25年目のおっぱい』(1976年、フィリップス)、『また恋をしてしまったぼく』(1978年、ベルウッド)、『ぼくが死んでこの世を去る日』(2004年、オフノート)、『そしてぼくはひとりになる』(2006年、シールズ・レコード)。著書に『未来への記憶』(話の特集)、『裁判長殿、愛って何』(晶文社)、小説『愛しすぎずにいられない』(マガジンハウス)、『渋谷公園通り』(ケイエスエス出版)、『ロメオ塾』(リトルモア)、訳書に『U2詩集』や『モリッシー詩集』(ともにシンコー・ミュージック)、『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、紀行文集『ブコウスキーの酔いどれ紀行』、晩年の日記『死をポケットに入れて』、『ブコウスキー伝』(いずれも河出書房新社)、『ぼくは静かに揺れ動く』、『ミッドナイト・オールデイ』、『パパは家出中』(いずれもアーティスト・ハウス)、『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)などがある。1月25日に最新アルバム「どうぞ裸になって下さい」をコスモス・レコーズからリリース。
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