2018年10月03日
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2018年10月03日
1966年6月30日のザ・ビートルズ来日公演以来、東京・九段の日本武道館(以下武道館)は、洋邦ポップ/ロック・アーティストのコンサート会場としても親しまれてきた場所であろう。その後も、モンキーズ、ウォーカー・ブラザーズ、シカゴ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、カーペンターズ、エリック・クラプトン、クイーンといった海外の面々が、70年代半ばほどまでに続々とそのステージに立ち、武道館のコンサート会場たるイメージを確かなものにした。
72年の『ディープ・パープル ライヴ・イン・ジャパン』(全米第6位)の世界的ヒットなどからより馴染みを深めた”LIVE IN JAPAN”もののライヴ作品にあって、武道館に明瞭な関わりのあるアルバムといえば次の2枚が思い浮かぶ。まずズバリ『ボブ・ディラン 武道館』。78年2月20日から東京で8回、大阪で3回の計11回のコンサートが開催された。それはザ・ローリング・ストーンズと並び、(その時点で)未だ実現していなかったロックの超大物=ボブ・ディランによる初の来日であった。日本公演は66年のバイク事故以降行なわれた初めての海外ツアーでもあり、次の歩みを刻み出すディランの動向は世界的にもきわめて熱い視線を集めていた。そんな記念すべきイヴェントを永遠の記録として残すべく企画されたライヴ・レコーディングは、2月19日、つまり初日の前日に録音許可が下り、2月28日と3月1日の歌と演奏から22曲が選ばれ、その年11月21日に2枚組ライヴLP『ボブ・ディラン 武道館』として発売される。当初国内向けのみのライヴ作品だった同作は大きな評判を呼び、結果的に79年に海外でも『BOB DYLAN AT BUDOKAN』のタイトルで発売されると全米アルバム・チャート第13位を記録した。
より派手に”BUDOKAN”の名を知らしめたのが、こちらであろうか。同じ78年、4月に初来日を果たしたのがチープ・トリックであった。彼らは、福岡、名古屋、大阪を周り、東京(4月28/30日)、そして静岡という日程でツアーを敢行した。ベイ・シティ・ローラーズの一大旋風によって10代を中心とする新しい巨大なマーケットを切り拓いた洋楽ロックは、ほぼ同時期にクイーン、キッス、エアロスミス、ジャパンといった個性に富んだバンドがそれぞれに熱狂的なファンを有し、稀にみる活況を呈していた。それらのグループに続いたチープ・トリックは、ロック論好きの読者層を持つ当時新進の『ロッキング・オン』と、グラビア映えするスター支持派のイメージがあった老舗『ミュージック・ライフ』の両専門誌から強いプッシュを得て、まだ中堅の位置にあった本国をしのぐ人気を日本で獲得し、そうして実現した来日であった。会場を埋め尽くした若い女性ファンから凄まじい熱狂の声がステージに向かって放たれた。当初国内向けという前提で企画された日本でのライヴ・アルバムは、東京と大阪の実況音源をバンド側が持ち帰り編集され(従って厳密にはすべて武道館音源というわけではない)78年10月8日に発売される。タイトルは『チープ・トリックat武道館』。日本での過熱ぶりが米ローリング・ストーン誌で記事になり、輸出された日本盤はボストンのラジオ局WBCNのディスク・ジョッキー=オイディプスなどに紹介されると7万5000枚が完売。遂には79年2月に『CHEAP TRICK AT BUDOKAN』の米国発売が実現する。ライヴ音源の「甘い罠」がラジオをにぎわせるとアルバムのセールスはさらに加速し、計53週チャート・インし続けると最終的には300万枚の売れ行きに到達した(全米最高第4位)。スタジオ・ヴァージョンではエコー処理されていた”crying crying crying”の箇所を日本の女性ファンによる合唱が担っていたのが非常に印象的だったライヴ・シングル「甘い罠」(全米第7位のミリオン・ヒット)は、武道館でのただならぬ盛り上がりをヴィヴィッドに伝えた。それは、64年2月7日にニューヨーク・ケネディ空港に降り立ち、本格的な上陸を果たしたザ・ビートルズへの激烈な歓迎ぶりをもアメリカの人たちに想起させたのかもしれない。
奇しくも同じ1978年という年に、世界的な話題となる2作のライヴ・アルバムのタイトルに名前が付けられた日本武道館。東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、開館となったのが1964年10月3日であった。
≪著者略歴≫
矢口清治( やぐち・きよはる):ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
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