2017年03月29日
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2017年03月29日
「パティ・ボイドと言えばジョージ・ハリスンである」と、パティについてちょっと前に書いた。では、「ジョージ・ハリスンと言えば」誰だろう。ジョン・レノンかポール・マッカートニーかリンゴ・スターか? もちろんそれも大きな「ひとつ」だけれど、ジョージの毒舌・皮肉・諧謔・反骨…などの「持ち味」を感覚的に理解し、共鳴し合っていたのはモンティ・パイソンだった。
中でも、「言わなくても通じる」付き合いをジョージと長く続けていたのは、ビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に出演したボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンドのニール・イネスだったが、もう一人、忘れてはならない人物がいる。元「パンク・フロイド」の、いや元「ラトルズ」のダーク・マックィックリーことエリック・アイドルである。
ラトルズはご存知のとおり、ビートルズのパロディ・バンドとしては世界最高峰の存在で、ジョージはそのドキュメンタリー映画にもレポーター役として出演するなど、ビートルズそっくりの曲を手掛けた彼らをむしろ面白がり、全面的にバックアップした。バンドのリーダーのロン・ナスティーに扮するのはニール・イネス。いわばモンティ・パイソンがビートルズで遊んだバンド、それがラトルズだった。
前置きが長くなったが、エリック・アイドルは1943年3月29日にイギリスのサウス・シールズ生まれの74歳。誕生は、ジョージのほぼ1ヵ月後だ。ケンブリッジ大学では英文学を専攻し、コメディ・サークルの代表もつとめ、卒業後はラジオやテレビの台本の執筆などを手掛けたという。モンティ・パイソン結成の大きなきっかけとなったのは、67年に関わった子供番組『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』だった。そこで知り合ったマイケル・ペイリンやテリー・ジョーンズらと69年にモンティ・パイソンを結成。パイソンが台本を手掛けたBBCのテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』の放送で、モンティ・パイソンの名前は広く知れわたるようになる。
その後、ラトルズ結成のきっかけとなる『ラトランド・ウィークエンド・テレビジョン』をニール・イネスらと手掛けた。その番組でジョージは、「マイ・スウィート・ロード」の盗作問題を逆手にとったパロディ・ソング「ザ・パイレート・ソング」(75年)を披露したが、その曲はジョージとエリック・アイドルの共作だった。こうしてジョージとの交流が深まっていったが、ジョージとの浅からぬ縁はそれだけではない。
ジョージはさらに自分の曲でも、盗作騒ぎをネタにした「ディス・ソング」(76年)を書いたが、以後「人生の夜明け(Crackerbox Palace)」「トゥルー・ラヴ」と続くジョージのPVは、すべてアイドルが手掛けている。それらのPVにはアイドルの他にニール・イネスやジョン・クリーズらも出演するなど、アイドルとジョージの関係が最も近かったのはこの時期で、これらのPVは、ラトルズとは反対に、ジョージがモンティ・パイソンで遊んだもの、と言えるものでもあった。そうした交流を経て、78年に『ライフ・オブ・ブライアン』の資金繰りがままならなかったモンティ・パイソンを、ジョージはハンドメイド・フィルムズを設立して援助したのだった。
90年代以降もアイドルは、映画『相続王座決定戦』(93年)の脚本・主題歌・製作総指揮を手掛けたり、映画『キャスパー』で主演を演じ、製作総指揮を手掛けたスティーヴン・スピルバーグに絶賛されたりと、映画関連でも華々しい活躍を続けている。
2011年には、モンティ・パイソンの映画をモチーフにしたミュージカル『スパマロット』(脚本はアイドルが担当)の日本公演の宣伝のために初来日。記者会見では「モンティ・パイソンの中で6番目にいい人です」「真面目な話からしようと思います。私は日本の首相になる準備があって来日しました」などと言って笑いをとった。
翌12年のロンドン・オリンピックの閉会式では、アイドルが書き、映画『ライフ・オブ・ブライアン』のエンディング曲となったモンティ・パイソンの代表曲「オールウェイズ・ルック・オン・ザ・ブライト・サイド・オブ・ライフ」を披露した。さらに同年11月29日、ジョージの1周忌に開催されたトリビュート・コンサートには、テリー・ギリアム、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリンにニール・イネスも加わって、ヒット曲「シット・オン・マイ・フェイス」と「木こりの歌(The Lumberjack Song)」を披露。ユーモアを交えながらジョージに思いを届けた。
ジョージ・ハリスンとの繋がりでエリック・アイドルを語りすぎたかもしれない。だが、両者の共通点は他にもたくさんある。たとえばビートルズの『アンソロジー』シリーズ用に収録された「フリー・アズ・ア・バード」と「リアル・ラヴ」に続く新曲「ナウ・アンド・ゼン」の収録を拒んだのはジョージだった。ポールからの共作活動の呼びかけや、ビートルズ再結成にも首を決してタテには振らなかった。一方のアイドルも、ラトルズの“再結成”には全く興味を示さなかった。そういえば、「フリー・アズ・ア・バード」のPVに、「ペイパーバック・ライター」を思い起こさせる“大衆作家”役で出てくるのはエリック・アイドルである。
エリック・アイドルは、先に触れた来日時の記者会見で、笑いを取るためだけに話をしたわけではない。半年前(2011年3月)に日本で起こった“出来事”について「オールウェイズ・ルック・オン・ザ・ブライト・サイド・オブ・ライフ」の一節を日本語で歌いながら、こう語った――「人生がひどいものだと感じたら、何か忘れているものはないかと考え、“笑って、歌って、踊って”というその曲の精神が、この国には必要なんです。悲劇的な状況にいるからこそ、世界共通の気持ちに気づくことができるんです」と。
コップの中に水が半分残っている時に、「あと半分しかない」と思うのか、それとも「まだ半分もある」と思うのか。いつしか私も「まだ半分もある」と思うようになり、それが「日々楽しく」生きる――「好い加減で適当」を大事にする原動力になってもいる。こうしてエリック・アイドルの「オールウェイズ・ルック・オン・ザ・ブライト・サイド・オブ・ライフ」は、知らぬ間に自分にとってのアンセムになった。
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):CDジャーナル元編集長。手がけた書籍は『ロック・クロニクル』シリーズ、『ビートルズ・ストーリー』シリーズほか多数、最新刊は『GET BACK… NAKED』。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。最新刊は『ビートル・アローン』(4月18日発売予定)。
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