2019年06月25日
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2019年06月25日
45年前の1974年の6月25日は、日本のロック・シーンの一つの頂点を極めたバンド、 四人囃子のデビュー・アルバムで、その後のいろんな音楽シーンに様々な影響を与え、海外でも高い評価を得た『一触即発』がリリースされた日だ。
四人囃子は、このデビュー・アルバム発表以前から、ホール・クラスの会場でライブを行ったり、当時の音楽シーンに絶大な影響力を持っていた音楽雑誌『ニュー・ミュージック・マガジン』で大々的に採り上げられたりと、すでに人気、実力ともトップ・バンドの一つとなっていて、その2年前頃から数社よりレコード・デビューのオファーがあり、それに向けたデモ録音も行われたりもしていだが、なかなか決まることはなく、メンバーやスタッフと以前から交流のあった私のところに話が回ってきた。
私は当時は洋楽のディレクターで、洋楽は海外から来る音源を使うので制作予算というものがなかったので、邦楽の担当者にお願いして制作する事になった。しかし、その邦楽担当者が私が現場に関わりあった方が何かとスムーズにいろんなことが進むと判断したため、会社の許可を得て私も制作現場に参加することになり、実質的にディレクターの役割でこのアルバムに携わることになった。
アルバム『一触即発』は、当初はジャケットにクレジットされているのとは別のスタジオで録音を始められたのだが、そのスタジオの雰囲気に馴染めず、広くゆったりとしたスタジオへの要望に応えて、親会社の映画会社関係のネットワークで、急きょジャケットに表記されている、当時六本木にあった東京スタジオセンター(TSC)という、現在“東京ミッドタウン”となっている、かつて防衛庁があった場所の近くで、映画会社の日活が所有し、主に映画用のオーケストラを録音するために建てられた広いスタジオが用意され、本格的な録音が開始された。
四人囃子が東宝レコードを選択したのは、当時の大手の会社のほとんどが、レコ―ディング現場では録音エンジニアの意見が優先され、演奏するミュージシャンや歌手の意見などは抑え込まれがちで、実際、四人囃子も東宝レコードに決定する前の各社でのデモ録音では、先進的なアイデアを持ったこのバンドの意見などに耳を傾けようとする雰囲気はどの会社もなく、当時できたばかりの東宝レコードは、いろんな事に柔軟だったからだ。
このアルバムの録音では、当時まだ日本のロック・バンドに対する録音手法やその環境が、欧米とはずいぶんと遅れを取っていて、手探りの状態で、メンバーやスタッフが得ていた欧米のバンドの録音法のわずかな情報を参考にした試行錯誤の連続だった。バス・ドラムの皮を付けたり外したり、ギターやベースのアンプに立てた録音マイクの位置や角度を何度も試してみたり、そうした部分にかなりの時間を費やした。
スタジオに置いてあったチュブラーベルで遊んで叩いていて、それがなかなかいい響きだったので、それを「ピンポン玉の嘆き」のクライマックスの部分で使ったり、音の響き具合を確認するためにそのスタジオのいろんな場所の地べたに板を落としてその反響音を確認してみた時の階段で録音した“パ~ン”という破裂するような音が、「一触即発」の変調する部分に使われてたりと、いろんな楽しいハプニングもあり、音楽に対する冒険心とアイデアに満ちた、まだ20歳前後というメンバーと、それを実現させようとするスタッフとともに創り上げた日本の音楽史に残る名作、名演となった。
四人囃子『一触即発』ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
髙橋重夫(たかはし・しげお):音楽プロデューサー、楽器開発プロデューサー。1970年代にレコード会社ディレクター、音楽雑誌編集長を経て、音楽プロデューサー&ライターとなり、数多くの音楽雑誌、洋楽レコードのライナーノーツなどを手がけ、その後、楽器メーカーに在籍し、楽器開発、アーティストリレーションなどを長年行い、現在は、執筆、イベント企画、楽器開発などを行っている。著書に『100%エレクトリック・ギター』(シンコー・ミュージック)、『もっと知りたい!!エレキギター専科』(ミュージックトレード社)など。
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