2019年07月08日
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2019年07月08日
現在、「プレ40周年」と銘打ったコンサートツアー“Seiko's Singles Collection”を開催中の松田聖子。ツアータイトルどおり、ほぼシングル曲だけで構成された内容で、すぐに追加公演が決定するほどの人気を博している。1980年のデビュー以来、「永遠のアイドル」として、常にスポットを浴びてきた印象のある彼女だが、実は2年ほど活動を控えていた時期があった。そう、神田正輝と結婚した85年6月から、娘・神田沙也加の出産を経て、87年4月に本格的な再始動を果たすまでの期間である。本稿では初婚前、第1期アイドル時代の掉尾を飾ったシングル曲「DANCING SHOES」と、当時の彼女を取り巻く状況について検証したい。
85年の松田聖子は年初から年末まで、芸能界の主役であり続けた。前年(84年)の年間セールス(シングル+LP+カセットの総売上金額/オリコン調べ)は78.3億円。2位の中森明菜(56.9億円)、3位のチェッカーズ(36.6億円)に大差をつけただけでなく、不滅と思われた78年のピンク・レディー(71.9億円)をも凌ぐ歴代最高のセールスを記録し、歌謡界の女王として君臨していたのだから、当然と言えば当然かもしれない。だが注目されたのは音楽面だけではなかった。
一連の狂騒曲は1月23日に始まった。この日、開かれた記者会見で、彼女はかねてより交際が報じられていた郷ひろみとの破局を告白。「好きで、愛し合って別れるんだから、もし今度生まれ変わった時は絶対に一緒になろうねって・・・」と声を詰まらせて号泣した。郷との仲は噂先行で、一部では「話題づくり」との見方もあったため、図らずもこの会見で本当に交際していたことが判明するわけだが、トップアイドルによる破局会見は前代未聞。芸能メディアは蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。週刊誌やワイドショーが真相解明に躍起となる中、彼女は後述するアルバムのレコーディングのため渡米。2月末まで約1ヵ月間ニューヨークに滞在する。3月からは前年にスタートした全国ツアー“GOLDEN JUKE”を再開するが、その間にシングル「天使のウインク」と、ベストアルバム『Seiko-Train』がオリコンチャートの1位を飾るなど、人気は盤石であった。
そして3月4日、聖子劇場の第二幕が上がる。この日、主演映画『カリブ・愛のシンフォニー』(4月13日公開)で共演した神田正輝との仲を尋ねられた彼女は、恋人関係にあることを肯定。4月9日には神田との婚約と6月の結婚を公表する。破局会見からわずか2ヵ月半での婚約は賛否両論を巻き起こすが、それでも人気に陰りは見えず、寧ろ日を追って祝賀ムードが高まっていく。その証拠に5月発売のシングル「ボーイの季節」も、6月発売のオリジナルアルバム『The 9th Wave』も、あっさりと1位を獲得。結婚引退を表明しなかったため、「独身最後」と謳われた全国ツアー“Seiko Prism Agency”(4月25日~5月12日)も盛況を極め、結婚を決めたトップアイドルの一挙手一投足がメディアを賑わせていく。
誰が言い出したのか、6月24日に決定した華燭の典は「聖輝の結婚」と称され、当日は早朝、新婦が自宅を出るところから、目黒サレジオ教会での挙式、ホテルニューオータニにおける披露宴、果ては新婚旅行でハワイに旅立つ成田空港まで、ほぼ終日、ニュースやワイドショーで報じられた。ゴールデンタイムにテレビ朝日系で独占放送された特番の視聴率は34.9%。5年前にデビューした元祖ぶりっ子のアイドルが国民的スターになった瞬間だった。その6月24日にリリースされたのが、彼女にとって22作目のシングルにあたる「DANCING SHOES」であった。
同作はもともと全米デビューすることを前提に制作された全曲英語詞のアルバム『SOUND OF MY HEART』(8月15日発売)の中の1曲。前述の渡米はこのアルバムの歌入れのためだったが、実は84年10月と85年5月にもニューヨークのヒット・ファクトリー・スタジオでレコーディングが行なわれている。同アルバムのプロデューサーは、ビリー・ジョエルやサイモン&ガーファンクルを手がけたことで知られるヒットメーカーのフィル・ラモーン。ソングライターには、マイケル・ボルトン、ボビー・コールドウェル、マイケル・センベロなど、著名ミュージシャンの名前がクレジットされ、全アレンジをグラミー賞受賞歴もあるジャズピアニストのデイヴィッド・マシューズが担当するなど、錚々たるメンバーが参加したが、歌い手の結婚・休業が決まったため、全米進出は見合わせることになったという。
欧米の音楽シーンを意識したロックテイストのダンスナンバーや、AOR系のエモーショナルなバラードが揃った同アルバムだが、リードシングルの「DANCING SHOES」は、「素敵な彼と踊りたい!」と胸をときめかせる少女の心情を歌ったキュートでリズミカルなポップチューン。アタックを効かせたボーカルは“聖子ちゃん”の甘い歌声とはひと味違う力強さを備えていた。同作は“SEIKO”名義で英国のみ7インチ盤が、日本では彼女にとって初となる12インチシングルでリリースされ、7月8日付けのオリコンで初登場1位を獲得。3rdシングル「風は秋色」(80年)から続いてきたシングル連続1位記録を「20」に伸ばし、自らの結婚に花を添える形となった。なお12インチシングルで1位を獲得したのは、さだまさし「親父の一番長い日」(79年)、中森明菜「赤い鳥逃げた」(85年)に続く3作目(初登場1位は初)、日本人アーティストによる全篇英語詞の楽曲が1位を獲得したのは史上初の快挙であった。作詞・作曲は、オリビア・ニュートン・ジョンの「ハート・アタック」(82年/全米3位/オリコン71位)などをヒットさせていたスティーヴ・キプナーとポール・ブリスのコンビで、彼らは88年にも「Marrakech~マラケッシュ~」を作曲し(作詞は松本隆)、彼女に23作目のシングル1位をもたらしている。
結婚時点(85年6月24日)で、シングルは歴代6位の1,081万枚、LPは井上陽水に次ぐ歴代2位の475万枚、カセットは歴代1位の321万本。デビューからわずか5年で破格の実績を残した松田聖子だけに、結婚後に発売された『SOUND OF MY HEART』は本人稼働が全くなかったにも関わらず、オリコン・アルバムチャートで最高2位のヒットを記録した。“ミセス聖子”の動向はその後もメディアを通じて伝えられ、11月には紅白歌合戦への6回目の出場が決定。大晦日に7ヵ月ぶりのステージで「天使のウインク」を熱唱し、“松田聖子イヤー”を締めくくることになる。
当時、彼女を担当していた音楽プロデューサーの若松宗雄によると、彼女は当初、海外進出に積極的ではなかったという。だが、おそらく『SOUND OF MY HEART』の制作を通じて手応えを感じたのであろう。88年にはデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎えた国内向けアルバム『Citron』を発表。89年には再びフィル・ラモーンがプロデュースしたアルバム『ゴヤ・・・歌でつづる生涯』に参加し、3曲を歌唱。うち1曲では3大テノールの1人、プラシド・ドミンゴとデュエットを披露し、非凡な実力を証明する。そして90年6月、ついに『Seiko』で全米デビューを果たすのである。
松田聖子「天使のウインク」『Seiko-Train』「ボーイの季節」『The 9th Wave』「DANCING SHOES」プラシド・ドミンゴ,グロリア・エステファン,松田聖子,リッチー・ヘーブンス『ゴヤ・・・歌でつづる生涯』『Citron』写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
濱口英樹(はまぐち・ひでき):フリーライター、プランナー、歌謡曲愛好家。現在は『昭和40年男』(クレタ)、『EX大衆』(双葉社)、『週刊ポスト』(小学館)等の雑誌やWEBに寄稿するかたわら、FMおだわら『午前0時の歌謡祭』(第3・第4日曜24~25時)に出演中。近著は『ヒットソングを創った男たち 歌謡曲黄金時代の仕掛人』(シンコーミュージック)、『作詞家・阿久悠の軌跡』(リットーミュージック)。
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