2019年02月08日
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2019年02月08日
1982年2月8日、松田聖子の8枚目のシングル「赤いスイートピー」がオリコン・シングル・チャートの1位を獲得した。松田聖子にとっては6作連続の1位であり、彼女の数ある楽曲の中でも、現在に至るまで人気の高い作品である。
歌謡曲は基本、他作自演のスタイルをとっているが、そのため作詞家、作曲家、アレンジャー、ディレクター(プロデューサー)、そしてシンガーそれぞれの才能と実力、そしていくつもの偶然が重なり合って、奇跡的な楽曲が数多く生まれている。ちあきなおみの「喝采」も、沢田研二の「勝手にしやがれ」も、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」もそうだったが、この「赤いスイートピー」も奇跡的に誕生した歌謡史上の1曲に数えられるだろう。
デビュー3年目に差し掛かった松田聖子は、ひとつの転機を迎えていた。2曲目の「青い珊瑚礁」の大ヒット以降、あまりに売れっ子になりすぎてしまい、ハードスケジュールによる喉の酷使で、テレビで歌う際に声がかすれてしまうことが多々起き始めていた。「チェリーブラッサム」や「夏の扉」のように、声の伸びとドライブ感を活かしたアップ・ナンバーは聖子のトレードマークとなっていたが、こういった楽曲を歌い続けていくのが厳しくなり、さらには3年目とあって少しアダルトなイメージへの路線変更も必要となってきた時期でもある。
そこで、当時の聖子のディレクターであるCBSソニーの若松宗雄は、作曲の呉田軽穂こと松任谷由実に、喉に負担のかからない、キーを抑えたスローバラードを作って欲しいと依頼した。ちなみにユーミンの作曲起用は、2作前の「白いパラソル」から作詞を手がけていた松本隆の発案だったという。
松本隆=ユーミンのコンビは、過去に太田裕美「袋小路」「ひぐらし」手塚さとみ「ボビーに片想い」などの秀作を生み出しているが、当初ユーミンはこの依頼を渋っていたという。自身の知名度に寄りかかった形で売られることを嫌がり、作家として使用している「呉田軽穂」のペンネームならOKという条件で引き受けたそうである。以前からユーミンは「幕の内弁当はやらない」と公言しているが、これは当時、歌謡曲のアルバム制作でよく見られた、「ニューミュージックやシンガーソングライターの誰々が、こんなに沢山楽曲を書いています!」的な売られ方に抵抗が強かったのである。この形式を「幕の内弁当」と称しているのがユーミンらしい。まだこの時期は「呉田軽穂」のペンネームはそれほど多くの人が知るところではなかったのだ。
完成した楽曲を聞いた若松ディレクターは、Bメロやサビの部分で音程が下がっていることに対し、メロディーを上げるようユーミンにリテイクを出した。コンサートツアー中の楽屋まで押しかけ修正を要求した若松の熱意に負けたユーミンは「提供曲にダメ出しされたのは初めて」と言いながら、この依頼を快諾したという。
さて、この「赤いスイートピー」だが、松本隆の詞は、既に1行目の「春色の汽車」からして聴く者の想像力をかきたてる名フレーズであり、「煙草の匂いのシャツ」というフレーズからも、歌に登場する男女の年齢や職業まで浮かび上がるかのようなイメージ喚起力がある。交際して半年を経ても未だ手を握らないカップル、という初々しさ以上に、この歌に出てくる男性像は、松本隆が描き続けてきた「男性の弱さと優しさ」の象徴なのだ。「木綿のハンカチーフ」や原田真二「てぃーんずぶるーす」など、松本の過去作品に出てくる男性像は、その多くがこういう非マッチョ的なキャラクターであり、そこが松田聖子と同世代の、10代後半から20代前半の男性リスナーたちに、深く共感を持たれたのだ。また、男がちらっと時計を見るたび女は泣きそうな気分になる、という描写も、松本隆ならではのもので、それ以前の歌謡曲の作詞家からはこういった繊細な心象は生まれることがなかった。従来の歌謡曲に多かった、男性上位的な部分がまったくなく、むしろ女性のほうが積極性をもって恋愛を引っ張っていくかのような男女の関係性は、時代に対して新しいものであり、ちょうど恋愛の初期段階の、妙にぎこちない男女の距離感が絶妙なフレーズの連射で描かれている点も含め、この曲から聖子に女性ファンが増えたというのも納得の完成度である。
小道具やディテールに凝る松本らしいフレーズも随所に見られるが、極めつけは「駅のベンチ」だろう。岡田奈々「青春の坂道」の「ペンキのはげたベンチ」に匹敵する、青春のパワーワードなのだ。
作曲面で語るなら、まだこの段階ではユーミン色は薄い。ユーミン作曲&松任谷正隆編曲の組み合わせで言うなら、最もユーミン色の強い松田聖子作品は「小麦色のマーメイド」や「瞳はダイアモンド」、または「ボン・ボヤージュ(Bon Voyage) 」あたりだろう。コード進行も比較的スムースで、Aメロの頭ではG-Am7-Bm7と実にシンプルかつ聞き取りやすい素直なコードの配列である。肝はBメロ冒頭の「なぜ」の部分で、AメロとBメロを接続するブリッジのような役割を果たしているのだ。2番の歌い終わりにサビのリフが被る(「好きよ」の部分)構成は、ユーミンが得意とするところで、自身の作品でも「甘い予感」「DESTINY」「守ってあげたい」など数多くあるが、あまり歌謡曲では用いられない手法でもある。さらに松任谷正隆のアレンジ面でも、イントロのくぐもったようなピアノの音色で、春先のイメージを描き出している点に注目したい。この方法はイルカの「なごり雪」でも用いられており、季節感を音に置き換える、松任谷正隆アレンジの秀逸な技巧が本作でも余すところなく現れている。
そして、伸びやかでドライブ感のあるヴォーカルから、ソフトで抑えめな歌い方にチェンジした松田聖子の歌唱法も功を奏し、恋愛初期のデリケートな心理状態を見事に表現している。ちょうど若松ディレクターがユーミンに「メロディーを上げるよう」リテイクしたBメロ部分は、1番・2番ともヒロインの複雑な心情が表現されている箇所でもあり、サビではそんな気の弱い男にもついていく、といった意思表明がなされているのだから、曲の構成としても完璧。まさに若松ディレクターの執念が生んだ傑作と言っていいだろう。
B面の「制服」も人気の高い楽曲で、こちらも松本隆=呉田軽穂=松任谷正隆のトリオによる作品。松田聖子の楽曲ではあまり「学園ソング」的なものは少ないので貴重でもあり、松本隆としては木之内みどり「学生通り」やその後の斉藤由貴「卒業」と同じラインに立つ作品であり、学校の卒業イコール青春という季節からの卒業であり、失ってからまぶしかった時期を知る、という松本隆の永遠のテーマが歌われている。同時に4月から男性が都会に行ってしまう、というシチュエーションも、やはり松本が描き続けてきた「田舎⇔都会」の対比なのである。
「赤いスイートピー」はまさしく作詞家、作曲家、アレンジャー、ディレクター、シンガーの出会いと才能、力量が生み出した、日本ポップス史上に残る傑作なのだ。それは数多くのアーティストによるカヴァーの多さでも証明されており、発売から33年を経た2015年の『紅白歌合戦』では松田聖子が大トリでこの曲を披露、楽曲の寿命の長さを証明する結果となった。また松本隆=呉田軽穂のコンビはその後、84年5月10日発売の「時間の国のアリス」まで断続的に松田聖子へ楽曲提供を続け、2015年10月28日には、実に31年ぶりに「永遠のもっと果てまで」を提供している。
参考文献:『80年代アイドルカルチャーガイドあのころ、みんなが恋していた!』(洋泉社)若松宗雄インタビュー
松田聖子「チェリーブラッサム」「赤いスイートピー」「瞳はダイアモンド」写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。近著に『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)、構成を担当した『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』(リットー・ミュージック)がある。
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