2019年05月17日
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2019年05月17日
本日5月17日は、城之内早苗の誕生日。1968年(昭和43年)生まれということは、今年51歳。そして、現役バリバリのベテラン演歌歌手である。現在のところ最新曲、昨年(平成30年)9月発売された「よりそい蛍」に至るまで、延べ31作のシングルをコンスタントにリリース。よって、決して懐古すべき存在として語ってはいけない一人である。しかし、彼女が1986年にソロデビューした頃の「若手女性演歌歌手事情」は、今振り返ってみればちょっと特殊だった。その辺りに焦点を当てながら、3半世紀に渡る彼女の歌手人生を讃えてみたいと思う。
ある世代から上の「大人」の皆さんにとって、城之内と言えば「エースのジョー」、東京讀賣巨人軍のV9時代を支えた大投手、城之内邦雄を想起するのが普通と思うが、そんな彼の兄の孫娘として生を受けたのが早苗である。幼い頃から民謡好きで、中学2年の時東京12チャンネル(現・テレビ東京)の番組「全日本演歌選手権」で一次予選を通過したのをきっかけに、CBS・ソニー(当時)にスカウトされる。この時期の知られざる活動として、85年に開催された「国際科学技術博覧会」(つくば万博)に向け、茨城県の各市町村を音頭で盛り上げようという企画のため、総合プロデューサーを務めていた寺内タケシに推薦され、彼女自身の出身地絡みの「神栖町民音頭」ほか2曲をレコーディング。プロモーション盤も存在し、マニアアイテムと化している。そんな85年に、彼女の運命を変える「夕やけニャンニャン」出演、そしておニャン子クラブ会員番号17番への道が待ち受けているのだが、おニャン子入りに先立ち、「ミスセブンティーン・コンテスト」予選で見出され、運動会要員として(!?)ソニー入りしていた国生さゆりとよく似た運命を、彼女も辿っていたというわけだ。
そして86年6月、演歌歌手として「あじさい橋」でソロデビューするに至るのだが、ここで当時の若手女性演歌歌手界がいかにエアポケット化していたかについて、少々触れておきたい。
手許にある、とあるアマチュア・インストゥルメンタル・グループがおそらく昭和40年代前半に自主制作したアルバムのライナーノーツの中で、収録曲「影を慕いて」に関してこんな一文が寄せられている。
「青春の苦悩をこの曲に寄せた古賀政男、25才の作品。戦前、戦後を通じ、これ程若者を共鳴させた曲はまずないであろう」。
同曲の初出は1931年(昭和6年)だが、それから約40年を経て「激動の時代の声」として藤圭子が圧倒的支持を経た辺りから、演歌を取り巻く環境そのものが時代と共に「歳を取り始めた」としか感じられなくなった。上記に引用した解説文も、日に日に「冗談でしょ?」というニュアンスが強くなっているのではないだろうか。70年代前半の、森昌子や石川さゆりの初期作品には、純情色が強いとは言え、当時のポップス歌謡との明確な境界線を感じることはまずないが(今では演歌とカテゴライズするのも可能な、小柳ルミ子のドメスティック路線の曲まで含めても)、ニューミュージックの一般化、及びそれに伴うポップス歌謡のさらなる洗練が進むに従って、益々演歌という存在が孤立に向かってしまうのは避けられない運命だった。奇しくも森進一の「襟裳岬」や「湯けむりの町」、岡林信康のアルバム『うつし絵』のような、両極端の歩み寄りがいくつか行われたにも関わらず。小林幸子、牧村三枝子、渥美二郎といった、長らく低迷していた中堅歌手に大ヒット曲が生まれた70年代末期になると、演歌の新人に「フレッシュ」なものを期待するなんてあり得ないことになっていた。
やがて、アイドル百花繚乱期の80年代を迎えると、少しは風向きが変わってくる。84年デビューした神野美伽は、青年誌のグラビアに水着姿で登場するなど、当時では希少なビジュアルアピールにも長けた一人。前年、かの「スター誕生!!」が生んだ最末期の歌手としてデビューしていた滝里美は、着物姿のまま滝に打たれるなど体を張ったキャンペーンを展開して話題を呼んだ。
その一方で、幼少期から「ビクター少年民謡会」に所属し、演歌の新星としてデビューしかけていた長山洋子は、主に低迷を重ねる演歌市場に送り込むには若すぎるという理由で急遽ポップス路線に軌道変更。93年に公式に演歌歌手として再デビューするまでの9年間を、アイドル歌手として全うした。デビュー当時は純情演歌歌手の部類に入れられていた松居直美は、「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」で「普通のOL」役に起用され人気沸騰。洋楽やチェッカーズのカバーなど、意表を突くレコード活動へと進んだ。そして、数多の「その他大勢」たちが、何枚かの興味深いレコードを残し、夜の闇の中に消えていった、そんな80年代。アイドルやニューミュージックを支持する者、さらには作ったり売ったりする者たちにとって、「演歌」は完全にダーティ・ワードと化していたのだ。
そんな時代に向けて、名刺替わりの一声として「日本の心は演歌です~」(この冒頭に、民謡や浪曲のレコードの歌詞カードによく散見される、あの山みたいなマークを挟みたいものである)を「会員番号の唄」で放っていた「エースのジョー」の末梢が演歌でソロデビューするのは必然であり、かつ冒険でもあった。時はおニャン子天下時代、6月23日付のオリコンチャートで「あじさい橋」は1位に初登場し、演歌の1位初登場は史上初と話題になったが、翌週には同じくおニャン子の「ネタ曲担当」ニャンギラスにあっさりその座を奪われている。さらにソロデビューした高井麻巳子に明け渡すというこの週替わり1位状態に、ある種の快感を覚えた方も当時多かったと思われるが、結局は2年以上売れ続けた瀬川瑛子(彼女も「低迷から生き返り組」の一人だった)「命くれない」に、記憶に残る歌という側面で勝つには至らなかった。
しかし、この「おニャン子からの刺客」によるテコ入れが起爆剤になったのか、はたまた「命くれない」のヒットがそうさせたのか、翌87年あたりから女性演歌歌手界が再び活気を帯び始めるのだ。既に「その他大勢」の一人として地道に活動を始めていた伍代夏子、香西かおりに加え、坂本冬美、藤あや子など、若き有望株が次々と登場。アイドル的支持とは別の部分で国民的人気を獲得していく。シングル発売当時はそれぞれ最高順位27位・46位と、意外にも大ヒットと呼べる部類に入らなかった森昌子「越冬つばめ」(83年)や石川さゆり「天城越え」(86年)が、若いOLにまで好んで歌われるカラオケスタンダードとして驚異的生命力を見せ始めたり、新しい動きも確実にあった。筆者も当時の職場環境上、キャンペーンで訪れる若手演歌歌手に接する機会を数多得たものだが、総じてひたむきで「いい人」だった。演歌に対してコンプレックスを抱くのはよそうと個人的に決心したのは、この頃のことである。未だに有望な若手の登場に対して、興味深くウォッチするのは怠らない。
話を城之内のことに戻そう。おニャン子という呪縛から解放された87年以降は、決して派手なヒット曲に恵まれてはいないものの、森高千里による書き下ろし曲を発表したり、老舗深夜番組「走れ!歌謡曲」のパーソナリティーを務めたりと、決して減速することなく活動を継続している。意外にも、紅白歌合戦への出場が未だにないが、エースというよりいぶし銀の守備固めのような存在感の中、未だにアイドル心をどこかに秘めている彼女に、でかい花を咲かせるチャンスはまだあるはず。
城之内早苗「あじさい橋」写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
おニャン子クラブ「会員番号の唄」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。2017年 5月、3タイトルによる初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』が発売。また10月25日には、その続編として新たに2タイトルが発売された。
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