2015年06月02日
スポンサーリンク
2015年06月02日
1969年6月2日深夜(正確には3日午前0時30分)、文化放送「セイ!ヤング」がスタートした。先発していたニッポン放送の「オールナイトニッポン」TBSの「パックイン・ミュージック」と共に3局が人気を競った結果、「深夜放送ブーム」と言われる社会現象を巻き起こすまでになったが、我が友だった土居まさる君こそがそのパイオニア的存在だったと言えよう。
土居まさる(本名 平川厳彦)は1940年8月静岡県生まれ。立教大学経済学部を経て1964年に文化放送に入社。新人アナ研修時代に彼の評価は高く、スポーツアナとしての将来を期待されていた。しかし同時に彼はディスクジョッキー番組にも興味を持っていた。学生時代にカントリーミュージックバンドの司会者として活躍した経験があり、カントリーのレコードを収集していた。特に大御所のハンク・ウイリアムズが好きで「Lovesick Blues」や「Your Cheatin‘Heart」を口ずさむことが多かった。
彼は努力家で、常にラジオを聞いて人気のある出演者たちのトークを研究していた。特に熱心に聞いていた番組がニッポン放送の「青島幸男のまだ宵のくち」だった。番組を聞きながら彼は青島の口調を真似ていた。「芸事は盗むことから始まる」と言われるが土居まさるのしゃべり口調は正にそこから始まっている。
入社した翌年1965年の秋に彼の番組「真夜中のリクエストコーナー」がスタートする。年功序列のアナウンス部の中では異例の抜擢だった。
この番組を担当するに際して使い始めた「土居」のマイクネームは立教大学の後輩だった巨人軍土井正三選手から拝借している。番組のスポンサーはA予備校でターゲットが当時「みみずく族」と呼ばれる団塊世代の受験生だった。そこで求められたのは「話のわかる兄貴的存在」だった。「やあやあ君起きてるかい?オレ土居まさる。今夜もビヤーっといこう!」といった感覚的な表現が若者の心を捉えて、急速にファンが広がっていった。ところが彼のこのトークがアナウンス部内で大問題になった。上司をはじめ先輩たちが「アナウンサーとしてあの話し方は許されない。」と批判し始めたのだ。当時は開局以来「NHK的アナウンスメントを基本とする」とされていた。しかし土居は負けなかった。若いリスナーたちから圧倒的な人気を集めたという自信が彼を支えていた。また担当ディレクターからの後ろ盾もあってその口調を頑として変えなかった。その結果、上司や先輩たちは振り上げた拳を下ろさざるを得なかった。この番組はリスナーからのリクエスト曲に加えてコント、クイズ、人生相談等が面白いと話題になった。若者にとっては「聴くラジオ」から「参加するラジオ」への変化であり、その後ブームとなる深夜放送の手法を先取りしていた。
その後、彼には制作部から次々に出演依頼が殺到し「セイ!ヤング」「ハローパーティー」等メイン番組を独占する勢いだった。
さらにスタート直後のエレックレコードから声が掛かりレコードデビューすることになった。デビューシングル「カレンダー」は文化放送を中心にオンエアーされた結果ヒットし、アナウンサーのレコードデビュー第1号になった。
やがて彼は独立しテレビ界に進出する。
「お昼のゴールデンショー」(フジ)「TVジョッキー」(日テレ)等にも出演し若者たちの兄貴的存在として人気を博した。
しかし、40代に入った頃から彼の意識の中では若者をターゲットとする番組を卒業したいと思うようになっていた。彼から「若者はもういいや!」という本音を聞いたことがある。恐らく年齢的にギャップがある若者を相手にすることに疲れていたと思われる。
その後「ヒントでピント」「プロ野球ニュース」「岡本綾子のスーパーゴルフ」等アダルト層を視聴者とする番組に転出する。
1998年4月、彼は23年ぶりに古巣の文化放送でレギュラー番組「土居まさるのラジオデイズ」をスタートする。この番組の選曲は60年代から70年代の懐かしい洋楽で、かつて深夜放送を聞いていた世代に向けた番組だった。彼はその番組をセルフプロデュースしたいと希望した。「以前からラジオはホットなコミュニケーションの場所と思っていた。ラジオに戻れてうれしい。自然体でいきたい。大人の事をちゃんと考える番組をゆっくり、のんびり、豊かに・・」と1回目の収録後に語っている。
ところが番組がスタートした半年後に体調不良を訴え、病院で検査を受け余命半年と診断される。しかし、彼は番組の継続を希望し、収録のためにわざわざ病院を抜け出してスタジオまで通った。担当者が病院でのセリフ抜き録りを提案してもスタジオ収録にこだわったという。この番組に対する彼の思い入れの強さが窺える。
1999年1月18日、すい頭部がんにより永眠。58歳の若さだった。
惜しまれつつ早世したハンク・ウイリアムズを彷彿させる生き急いだ人生だった。
「カレンダー」©エレックレコード
佐藤公彦は、フォーク・グループのピピ&コットの一員としてデビュー。72年にグループを脱退、ソロとなり5月に「通りゃんせ」でシングル・デビューを果たす。長髪に繊細な顔立ちと、その中性的な容姿からケ...
1967年、ニッポン放送が午前1時から5時までの若者向きの番組を作ることになった。高崎一郎さんのアシスタントから66年にニッポン放送が設立した音楽出版社、パシフィック音楽出版(PMP)に社員第一...
”名古屋が生んだトリックスター”つボイノリオといえば、コミック・ソングの王者、発禁大魔王、キング・オブDJとして知られているが、実はれっきとしたミュージシャンでもあるのだ。本日4月18ニ日が誕生...
「ハーイ!夜更けの音楽ファン、こんばんは!そして、朝方近くの音楽ファン!おはようございます!Go Go Go and Goes On!」誰もマネすることの出来ない音楽のビートに乗せた独特のトーク...
1968年の秋、ニッポン放送の制作部員の亀淵昭信さんが、同じニッポン放送の5階にあったパシフィック音楽出版のオフィスに一つのアイデアを持って顔を出した。亀淵さんがアシスタントプロデューサーを務め...
当時のパシフィック音楽出版がいかにしてフォーク・クルセダース「帰って来たヨッパライ」の原盤の権利を確保したか…。48年後に明かされるその原盤権獲得秘話。 text by 朝妻一郎
1975年6月から関東ローカルのラジオ関東で放送され、伝説となったラジオ番組「ゴーゴー・ナイアガラ」。それまでマニアにとっては雲の上だった大滝詠一がリスナーの元に降りてきてハガキを読み、胸を熱く...
48年前、1967年の本日10月2日に深夜放送のオールナイトニッポンが放送開始した。 そのオールナイトで1980年当時、タモリに明石家さんま、松山千春と名だたる芸人やアーティストがDJを務める中...
1980年、FM東京「パイオニア サウンド・アプローチ」で山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐、世良公則、ダディ竹千代という豪華メンバーによる竹野屋セントラルヒーティングが結成された。今回のコラムは当...