2017年04月18日
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2017年04月18日
4月18日は、つボイノリオ大先生の生誕記念日である。全国民が「金太の大冒険」を斉唱し、この輝かしき日を祝うことであろう。
この”名古屋が生んだトリックスター”つボイノリオだが、実は名古屋出身ではなく、名古屋本線で34分ほどの一宮市の出身。といった話ではなく、つボイノリオといえば、コミック・ソングの王者、発禁大魔王、キング・オブDJとして知られているが、実はれっきとしたミュージシャンでもあるのだ。今回はそのあたりのことを、じっくりと掘り下げてみよう。
デビューは70年。三人組フォーク・グループ、スリー・ステップ・トゥ・ヘブンの一員としてであった。グループ名は、マイルス・デイヴィスのアルバムのタイトルにもなっているセブン・ステップス・トゥ・ヘブンをモジったもの。
メンバーは、おクやまケいぞう、岩波啓、それに、坪井令夫(つボイノリオ)の三人。おクやまケいぞうは、初期のチェリッシュに関わり、八事裏山フォークオーケストラを結成し、景三バンドなどを率いて、名古屋の音楽シーンを荒らし回った奥山景三(現在は敬造)なのである。
デビュー曲は「本願寺ブルース」(テイチク・レコード)。お経をバックに怪しげなナレーションの入るしょーもない曲なのだが、名古屋に浄土真宗の本願寺名古屋別院があることを知っていると、少し笑えるかもしれない。むしろ当時、話題になったのはB面の「断絶の壁」のほうであった。シリアスなメッセージ・ソングで、世界を二分する壁について歌われている。オチをいえば、なんのことはない、銭湯の男湯と女湯を分ける壁のことで、これぞプロテスト・ソングならぬフロテスト・ソング。この頃からすでに、つボイノリオ先生のセンスは爆発していたのだ。
この「本願寺ブルース b/w 断絶の壁」は、深夜放送のブームにものっかり、ぼちぼちヒットした。そんな事もあり、つボイノリオは東海ラジオの人気深夜放送「ミッドナイト東海」のパーソナリティに抜擢され、花のDJ家業を歩むこととなるのだ。蛇足ながら、この「ミッドナイト東海」は、森本レオを輩出した番組としても有名であろう。
その後、調子に乗ったつボイ先生は、新たにメンバーを集めて欲求不満フォークソング・ボーイズを結成する。先生の担当はヴォーカルと踊り。カーリー・ヘアーで笑顔いっぱいで、アイドル・バンド的な要素もあった。母校の愛知大学の学園祭などにも出演してのだが、女の子たちの歓声が少しだけあがっていたようにも記憶する。
72年にビクター・レーベルのSFシリーズと契約し、「女の娘が欲しい b/w 魔法をかけろ」「君にクビったけ b/w 通り雨だよ」の2枚のシングルをリリース。キャッチーなメロディーの「女の娘が欲しい」が、ほんの僅かにヒットしたような気もするのだが、錯覚だったのかもしれない。ちなみに、レコーディングの際にスタジオで踊りながら歌い、エンジニアにたしなめられたという噂も伝わってきている。
バンド解散後はDJに専念していたのだが、それでも音楽の虫が騒ぎ、75年に、かつては吉田拓郎も在籍していたエレック・レコードと契約し、シングル「金太の大冒険 b/w 一宮の夜」をリリース。これが全国的に大ヒット。ヒットする間もなく、放送禁止になってしまうのだ。こんなことでメゲるつボイ先生ではない、さらに追い打ちをかけるように、「極付け!お万の方」「吉田松陰物語」「怪傑黒頭巾」と、放送禁止の山を築いていくこととなるのだ。
これまた蛇足ながら、「金太の大冒険」のレコーディング・セッションには、当時四人囃子に在籍していた森園勝敏がギターで参加している。録音の最中に笑い出してしまい、リズムが狂ったというエピソードが残っているのだが、真相はもちろん藪の中。
©エレックレコード
強烈かつ爆笑のコミック・ソングを連発すると同時に、タクシーの運転手の悲哀を歌った「わっぱ人生」や、自身を自嘲したような「花のDJ稼業」など、ペーソスに溢れた歌も発表している。CBS・ソニーに移籍してリリースした「恋のいちゃいちゃ」は、つボイ先生による男女二重唱。オールディーズ歌謡としても、なかなの出来映えなのだ。
その後レコード・リリースが途絶えるのだが、84年の「祭りだワッショイ チンカッカ」は藤吉佐登とのデュエット曲で、作詞は中村敦夫、作曲は歌謡界の御大小川寛興。ジャケットのメイクを、ザ・スターリンの遠藤ミチロウに手伝ってもらったことでも知られている。翌年には、つボイノリオに次ぐコミック・ソング界の巨匠、山本正之に楽曲提供された「名古屋はええよ!やっとかめ」で、名古屋愛を発散させていた。
そのつボイノリオ大先生なのだが、96年に大復活。レコード会社の枠を超えたベスト・アルバム『あっ超ー』をリリースすることとなるのだ。このアルバム用に新曲の「インカ帝国の滅亡」と「雪の中の二人」を用意するのだが、レコード会社の意向によりボツになった。これもまた、つボイ先生ならではのこと。
そんなわけで、つボイノリオ大先生は、年増泣かせのDJとして、レコード会社泣かせの歌手として、現在もまだ大活躍のまっ最中である。4月18日のこの日を「つボイの日」として、国民の祝日にすることを提案したい。
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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