2015年06月13日
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2015年06月13日
本日6月13日はFMの日。Fがアルファベットの6番目、Mが13番目であることからFMの日とのことである。1980年、FM東京「パイオニア サウンド・アプローチ」で山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐、世良公則、ダディ竹千代という豪華メンバーによる竹野屋セントラルヒーティングが結成された。今回のコラムは当時者の一人であるダディ竹千代による貴重なものとなります。
竹野屋セントラルヒーティング、竹野屋は竹内まりやの実家の屋号だ。敬称略ということで進めるね〜。
1978年かな僕は竹内まりやとDJをやっていた。多分デビューは同じ年だったと思う。最初はラジオ大阪でやっていたのだが番組改編で終わりとなったが、あまりにも評判よかったので文化放送で続けることになった。
その頃、FMの番組で何か面白い企画はないの〜?ということで考えた末がこの企画だった。
メンバーDr山下達郎 G桑田佳裕 Gダデイ竹千代 B世良公則 Key竹内まりやという布陣だ。何故そうなったのかはよく覚えていない、言い出しっぺは私に間違いない。
1人1人に連絡をとった、携帯のない頃だったから大変かと思ったけど苦労した記憶がない、しかも事務所通していない。ミュージッシャン企画のお遊びバンドだった。
その頃の僕は山下達郎とよく飲んでいた。音楽の話をしたことはあまりない。いや、全然ないかもしれない。自分のやっていたおとぼけCatsというバンドがデビューする前から知り合いだった。何でだろう? ま、とにかく飲んでいた。最後までこのバンドはドラムがなかなかみつからなかった、はてどうしようかなぁ〜と思っていたら目の前に彼がいた。
随分前に彼はドラマーだったいう話を聞いていたので、そうだ!「やってよ〜」と頼んだらすごく抵抗された。アイドルばっかりいるところに出たくない。というのが彼の言い分だったような気がする。俺はアイドルじゃないよ〜という訳のわからないこと言ったら、あっそうかと渋々承諾した。彼はTVに出ているタレントがよっぽど嫌いだったのだろう、名前は絶対に出さない放送は一回だけ、が条件だった。よってこの時のメンバー紹介は桑田が山下ヨタロー君と叫んでいる。
桑田とはデビューもレコード会社も一緒だ。ラジオやTV局を一緒にプロモーションした。当時のTVラジオはオーデションがあってそれに受からなければ放送できないことになっていた。僕は彼のボーカル力はアマチュアの頃から知っていたので一目も二目もおいていた。あんまりうまいのでNHKのオーデションの日、食堂で彼を自分のバンドに誘ったワ(爆)。
オーデションはおとぼけが受かりサザンが落ちた。何で? よくわからないが私は正統のコミックバンド、サザンは不真面目と映ったらしい。何せ大御所の作曲家先生達が審査員だった。
その後サザンは大ヒットし、NHKはもう一度サザンのオーデションをやりなおし出演許可になる。その時から桑田はNHKがどうも苦手のようだ。(アハ!)
世良は第14回ヤマハ・ポプコン決勝大会の時に初めてみた。「あんたのバラード」が優勝受賞曲だ。僕は東京代表でおとぼけCatsとは違うバンドで出ていた。すっかり自分が優勝するつもりでいたのだが上には上がいるものだ、ツイストが賞という賞を全部かっさらっていった。私は見事に落選した。
後日その話をしていたら、彼がポツリと実は僕ベーシストなんですと、のたまう。え? そうなのと手を見るとブラザーズジョンソンぐらい手がでかい。チョッパーやっている指だった。竹野屋のベースはすぐに決まった。ニッポン放送の近くでミニクーパーを運転している世良にばったり出会った。「おーい、今度ベースやってよ〜」「了解〜!」さっそうと彼は去っていった。あいつ絵になるなぁ〜。やっぱ勝てんわ。
当日は教会を改造した16チャンネルの安上がりのスタジオだった。ラブホテル街に近いのでまりやが迎えに来て欲しいという。待ち合わせの場所にいくと、黒いサングラスをかけて電柱の下で立っている長い髪の女。馬鹿者! おまえの方がよっぽど怪しいワ。
スタジオに入ると世良は一生懸命ベース練習している、桑田はエフェクターチェックに余念がない、達郎はマイクアレンジやらで駆け回り,もうミキサーになっていた。私とまりやは凍り付いてしまった「あれ??」もう随分前からスタジオに来ていたらしい。しかもマネージャーは誰も連れてきていなかった。おっ、やる気だわ・・・。
竹野屋セントラルヒーティング、パロディでつくったバンドだ。1回しか放送しない、名前は伏せることが条件で達郎は参加した。その後達郎は自分のFM番組で年に1度はこのバンドをオンエアーしてくれる。マスターテープを管理していたみたいだ。しかも懇切丁寧に私を本名で紹介してくれる。あれ?
まりやがアン・ルイスの曲「リンダ」を創った時、山下達郎にアレンジを頼みたいと私に言ってきた。「あぁいいよ」私は何も考えずに達郎といつも飲んでいる店に呼んだのだった。携帯電話がなかった頃の話だ。
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