2015年12月25日
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2015年12月25日
1967年の11月だったと思う。音楽評論家の木崎義二さんがニッポン放送の5階にあった、パシフィック音楽出版のオフィスに顔を出し、”今関西でこんな面白い曲が流行っているんだ“といって聞かせてくれたのが、フォーク・クルセダースの「帰って来たヨッパライ」との初めての出会いだった。木崎さんが神戸にあるラジオ局、ラジオ関西でしゃべっていた電話リクエスト番組で圧倒的な人気を博しているのだという。
早速聞いてみると、デヴィッド・セヴィルと彼のチップマンクスの「ウイッチ・ドクター」に代表される一連のヒット曲と同じようにテープの早回しを使ったノヴェルティー・ソングで、確かにラジオ関西のリスナーがいち早く面白い、と支持した事が即座に理解できた。
木崎さんは関西の大学生が卒業記念に自主制作したレコードということしか知らなかったが、上司のパシフィック音楽出版の専務で、少し前から始まっていたニッポン放送の深夜番組「オールナイト・ニッポン」のDJでもあった高崎一郎さんに聞かせると、“すぐにこのレコードの権利を取ってこい!”と命じられた。
高崎さんの知り合いで、ラジオ大阪のアナウンサーをされていた島津さんにその場で電話して、このレコードの権利を持っている人と会える手はずを取って欲しいと依頼した。
島津さんの仲介でその一日か二日後に大阪のホテルのロビーで、アート・プロモーションの秦政明社長とお会いすることが実現。“この自主制作盤の権利を譲って欲しい”とお願いしたところ、こちらがびっくりするほど簡単に”今まで欲しいと言って来た人間の中ではお前が一番若いから、一生懸命頑張るだろう”と、24歳の若造にOKしてくださった。もちろん後ろに高崎一郎さんや、ニッポン放送がいるということを十分考慮されてのことだったろうと考えられるのだが・・・。
秦さんはこの時、“原盤権は譲るけど、楽曲の著作権は自分で音楽出版社を作って、そこで管理するので駄目だよ”と言われ、その言葉通り、すぐにアート音楽出版を設立し、「帰って来たヨッパライ」の著作権を管理し、その後のURCレコードにつながる。
契約が出来たことを報告すると、高崎さんはすぐに仲の良かった、東芝レコード(東芝音楽工業)の高嶋弘之さんにシングル盤の発売を依頼した。同時にパシフィック音楽出版の社長だったニッポン放送の常務、石田達郎さんが”「オールナイト・ニッポン」の良いプロモーションになるから、この曲は「オールナイト・ニッポン」でだけかけろ”という号令を出し「帰って来たヨッパライ」も「オールナイト・ニッポン」も日本中の若者たちの知るところとなったのだ。
ところで、レコードの発売をお願いしている時、この自主制作盤の権利を取る事だけしか頭の中になかった私に高嶋さんが聞いてきた。”フォークルのメンバーと新しいレコードを録音する契約はどうなっているんだい?“ ”えっ、録音契約なんか必要なんですか?“”何言っているんだ、このシングルがヒットした後、他の会社から彼らの新しいレコードが出たらどうなるんだ!!“
慌てて、高嶋さんと大阪に行き、メンバーと録音契約を結び、その後の「悲しくてやりきれない」やアルバム「紀元弐阡年」も無事にパシフィック音楽出版が原盤の権利を確保出来た。
あの時高嶋さんが注意してくれなかったら、どんなことになっていたのかを想像すると、あれから50年近く経つ今でも本当に背筋が寒くなる。
高嶋さん、ありがとうございました。
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