2016年01月22日

初めて憂歌団を見た日のこと…本日は憂歌団・内田勘太郎の誕生日

執筆者:小川真一

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初めて憂歌団を見たのは、名古屋の千種にある理容会館という場所であった。普段は何に使っているのか判らないが、広いホールに簡単な照明装置を持ち込んだような会場で、床にゴザを敷き、観客はそこに座り込んでライヴを楽しむ。煙草の煙がたちこめ、誰が持ち込んだのか一升瓶の回し飲みが始まる。こんな光景も70年代初頭ならではのものだ。


このブルース・コンサートには、すでに人気が出始めていたウェストロード・ブルース・バンド、オールマン・ブラザース・バンドのフィルモア・ライヴをそのまま再現していた合資会社、京都出身のフォーク・シンガー豊田勇造、日本人離れした入道のヴォーカルをフィーチャーしたブルース・ハウス・ブルース・バンドなどが出演していた。このライヴに飛び入りゲストのような形で出演したのが、内田勘太郎と木村秀勝(現在は充揮)の二人組であった。


会場の後ろから観客をぬって舞台に登場し、少し照れくさそうに演奏を始めた。内田は今のような短髪ではなく、ぞろりと肩までの長い髪、木村は痩せこけていて少年のあどけなさを残していた。出てきた音は強烈だった。木村のドス黒くしゃがれた声に、内田のスライド・ギターが執拗に絡んでいく。


ジャズ・ジラム「キー・トウ・ザ・ハイウェイ」や、タンパ・レッドの「キングフィッシュ・ブルース」などを歌ったと記憶する。ソーニー・ボーイ・ウィリアムソンの「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を日本語で「ちょいとそこ行くネーチャン」と訳して歌っていたのが強く印象に残っている。これらの曲は、ビクターから発売になっていた戦前ブルースの集大成アルバム『ブルースの古典』に収められていた。戦前のカントリー・ブルースが大好きで、好きが高じて自分たちも歌い始めてしまった。そんな初々しさと熱さを感じさせるステージであった。


すでにこの頃から日本語のブルースを歌っていたことに驚かされてしまうが、憂歌団が日本語で歌い出したのには、ひとつの出会いがある。同じようにブルースに目ざめ名古屋で活動していた尾関ブラザーズとの出会いだ。彼らは名曲「シカゴ・バウンド」の作者であり、他にも「金持ちのオッサン」「俺の村では俺も人気者」といった初期の重要なレパートリーを提供している。尾関ブラザーズについては書きたいこともあるのだが、それはまたの機会に。


憂歌団がアルバム『憂歌団』をひっさげてデビューしたのは、それから少し経ってからの事だ。そのブルースの咀嚼ぶり、痛快なまでの諧謔性に仰天し、心からの喝采を送ったものだ。ここから彼らの輝かしい歴史が始まっていったのだが、憂歌団が憂歌団になるまでの過程が知りたければ、2000年に発掘CD化された未発表音源集『LOST TAPES』をお薦めする。ここにはブルースに対する熱意と愛情が存分に詰まっている。


木村充揮と共に憂歌団を築きあげたギタリストの内田勘太郎は、本日(1月22日)に誕生日を迎えた。彼のブルースを支えた愛器チャキとともに、この日を祝っているかと思う。

憂歌団「LOST TAPES 」

生聞59分 (紙ジャケット仕様

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