2017年06月26日
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2017年06月26日
1964年の夏、ビートルズの映画『ビートルズがやって来る! ヤァ! ヤァ! ヤァ! 』を観た帰り道に、ロジャー(当時はジム)・マッギンは決心したという。フォーク・ギターやバンジョーを手放し、エレクトリック・ギター、それもジョージ・ハリスンが映画の中で使っていたリッケンバッカーの12弦ギターを買おう、そして、ビートルズのようなロック・バンドを組もう、と。
アメリカの各地で、彼のような若者が沢山いたのだろうと思う。その日は、一日中ビートルズについて語りあい、誰がどの楽器を担当するか、そのことで会話はいちだんと熱を帯びたのだろうとも思う。アメリカばかりか、世界中のあちこちで、若者たちのこんな光景が見られたに違いなく、それを想像するだけでも楽しくなってくるが、ザ・バーズは、こうした若者たちの代表でもあった。
そして、そのザ・バーズのデビュー・シングルが、「ミスター・タンブリン・マン」だった。1965年4月12日に発売され、2カ月後の6月26日にはビルボードの全米チャートで1位を記録し、さらにその1カ月後にはイギリスのチャートでも1位に輝いた。もちろん、作者はボブ・ディランだ。彼の作品としても、こうやって、全米チャートで1位になったのは、これが初めてだった。
その1ヵ月ほど前に、ディランが、アルバム『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』の中で発表した曲で、ニューオーリンズで観たマルディグラや、フェデリコ・フェリーニの映画『道』に刺激されて書き始めたとされている。また、ディランのヴァージョンでギターを弾いていた友人のブルース・ラングホーンが、大きなタンブリンを持っていたことから、彼がモデルだという説もある。
もともとは、『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』に収録予定でセッションを重ねていたが、難産で間に合わなかった。ザ・バーズは、マネージャーのジム・ディクソンの薦めでそのときのディランのデモ・テープをもとに歌詞を短くして、ロック・アレンジで世に送り出した。
1965年1月20日、コロムビア・レコードのハリウッド・スタジオで約3時間のレコーディングだったという。ただし、ザ・バーズのメンバーたちは、ここで演奏はしていない。スタジオでの時間が限られていたことや、メンバーたちがエレクトリック楽器に慣れていなかったこともあり、プロデューサーのテリー・メルチャーの判断だった。
ハル・ブレーン、ラリー・ネクテル、レオン・ラッセル、ジェリー・コール、ビル・ピットマンなどのセッション・ミュージシャンたち、つまり、レッキング・クルーと呼ばれる腕達者な人たちが演奏し、メンバーでは唯一ロジャー・マッギンが12弦ギターを弾き、歌い、デヴィッド・クロスビーとジーン・クラークがハーモニーをつけた。クリス・ヒルマンとマイケル・クラークは、参加できなかった。
ロジャー・マッギンの12弦ギター、それに続いてベースが重くうねり、パーカッションが軽やかにリズムを叩きだす。そのイントロだけでも、時代を虜にさせるには充分だった。ビートルズに対するアメリカからの回答、とまで評されて、フォーク・ロックという新しい扉を開くことになった。
これを機に、タートルズ、ソニー&シェール、ママス&パパス、ウィ・ファイヴ、サイモン&ガーファンクル、ラヴィン・スプーンフル等々が次々とチャートを賑わすことになる。ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」のヒットも、フォーク・ロックの勢いを決定づける。ビートルズでさえ、彼らの「リムニーのベル」を聴いて、ジョージ・ハリスンが、フォーク・ロック調の「恋をするなら」を書いたくらいだ。
ザ・バーズは、ただたんにボブ・ディランとビートルズとを結び付けただけではない。そうすることで、フォーク・ロックという新風をともないながら、全く新しい個性としてポップ音楽の可能性を飛躍的に推し進めたのだ。それにしても、若い頃、「ミスター・タンブリン・マン」のイントロが聴こえた瞬間に、どれほど心踊らされたことかと思う。いつ聴いてもすぐに彼らのものだとわかったし、そのいっぽうで、一度たりとも同じように聴こえることがなかった。だからかどうか、いまでもそうだけど、ザ・バーズだったら、1日中聴いていたって飽きることがないのだ。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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