2016年03月14日

本日、3月14日はモップス・鈴木ヒロミツの9回目の命日となる

執筆者:川瀬泰雄

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3月14日はモップスの鈴木ヒロミツ氏の命日。


モップスは僕がホリプロに入社して最初に担当アーティストとしての希望が聞き入れられたバンドだった。以前から自分がやっていたバンドと似通ったレパートリーをやっているバンドとして認識していた。ホリプロの入社試験の面接でバンドをやっていたという履歴を見たホリプロの重役から「ホリプロにはたくさんバンドがあるけどどんなバンドが好きなんだ?」と聞かれた時も躊躇なく「モップスです。」と答えた。

ビートルズが登場するまでミュージシャンでも男の髪の毛は短いのが当たり前だった。当時流行っていたIVYスタイルでもIVYカットといわれるきちんとしたヘア・スタイルだった。ビートルズが世界中に影響を与えたのは音楽だけではなかった。

ビートルズのヘア・スタイルはマッシュルーム・カットやモップ・トップと呼ばれていた。MOPSというバンド名はそのモップ・トップから名付けられた。


鈴木ヒロミツは、弟のスズキ幹治が友人の星勝、三幸太郎、村上薫の4人で作っていたインストルメンタル・バンドにヴォーカリストとして加入した。アニマルズのエリック・バードンに心酔していたヒロミツは「朝日のあたる家」をはじめとするアニマルズの曲をレパートリーとして何曲も取り上げた。後にベースの村上薫が脱退し三幸太郎がベースに持ち替えレッド・ツェッペリンとおなじ編成になった。


サイケデリック・バンドとしてのデビューはホリプロの堀威夫社長がアメリカ旅行で見たサイケデリック・ムーヴメントを、日本で最初に仕掛けようという発想だった。ビートルズが使って一躍クローズアップされたリッケンバッカーのギターもアメリカのサイケデリック・バンドでも良く使われていた。そのリッケンバッカー360をお土産に買ってきた。まだ日本には輸入されてなかった、そのギターをプレゼントされた星勝は驚いた。ギタリストだった堀社長ならではの目の付け所である。


デビュー曲は「朝まで待てない/ブラインド・バード」(1967年11月10日)。

一躍、日本のサイケデリック・バンドの筆頭となった。

僕の前のモップス担当プロデューサーから聞いたのだが、このタイトルは締め切りが明日という時、なかなか詞が出来ないためにホテルに缶詰め状態で詞を書いていた阿久悠に対して、そのプロデューサーが「阿久さん、朝まで待てませんよ」と言ったところから付いたタイトル。

広告代理店でコピーライターや放送作家をやっていた阿久悠の作詞の処女作はスパイダースのデビュー曲「フリフリ」のB面の「モンキーダンス」だったが、作詞家としての本格デビューがモップスの「朝まで待てない」と「ブラインド・バード」だった。

生涯で書き上げた詞の数が5000曲以上と言われる巨匠の阿久悠の作詞家デビュー作だったのだから、作詞家阿久悠としてもモップスとしても記念的な作品である。


当時のホリプロにはグループサウンズといわれるバンドが沢山在籍していたが、僕の目からは唯一のロック・バンドがモップスだった。

ジャズ喫茶などではジェファーソン・エアプレインの「あなただけを(Somebody To Love)」やアニマルズのカヴァー曲などをレパートリーにしていた。モップスがサイケデリック・バンドからスペンサー・デイヴィス・グループなどのイギリスのロックやブルースにバンドの志向が替わっていった頃、所属していたビクター・レコードからもっとわかりやすいモンキーズみたいな曲をレコーディングしろと言われ、ロックにこだわるヒロミツが断固拒否した。そのために契約を切られ、メインの仕事はジャズ喫茶の出演だけだった。

僕の担当希望は、方向性に困っていた前プロデューサーが渡りに船というばかりに即決で移譲してくれた。


鈴木ヒロミツは僕と同学年。いわゆる団塊の世代である。担当が替わって、挨拶を兼ねた打ち合わせに行った時もそれまでの体験や聴いてきた音楽などもほとんど同じだったため、すぐに意気投合し昔からの友人のような感じになった。

ヒロミツの他を圧倒するパワーは歌う時だけではなかった。話も面白く周りを巻き込んでいく魅力やモップスのリーダーとしてメンバーをまとめていく力はかなりのものがあった。中でもバンドリーダーとして交渉する説得力は抜群だった。

新人のプロデューサーだった僕を煙に巻くくらいは造作もないことだっただろう、無理難題もいつの間にか引き受けてしまっていた。


ヒロミツを筆頭とするメンバーの目指すところは世界に通じるロック・バンドである。当時は僕自身も同じ考えだったが、日本語のロックなんて考えられなかった。日本語にすることでメロディに滑らかさが消え、昔、欧米のポップスに日本語の歌詞がついた瞬間に歌謡曲になってしまったのと同じような気がしていた。

ヒロミツの考えているロック・バンドとしてのモップスは徐々に浸透していった。

東京文化会館での「オーケストラル・スペース」に出演し、小沢征爾指揮による日本フィルハーモニーと共演し一柳慧の「アップ・トゥ・デイト・アプローズ」を演奏し各方面から絶賛された。


担当になった僕が最初にやることは新しいレコード会社を決めることだった。

レコード会社数社のプロデューサーとの話の中で、モップスに一番強く興味を持ってくれる東芝レコードに決定した。

ただ、最初のレコード・リリースは星勝の歌声に魅せられた東芝の安海勲プロデューサーの要望により星勝(まさる)名義の東芝エクスプレス・レーベルからのシングル盤「眠りたまえイエス」だった。多分ヒロミツはやきもきしていたのだと思うが、モップスのレコードが出せるのならと我慢していた。そして今度こそはモップスの出番となった。

安海プロデューサーは自身が担当ディレクターをしているヴェンチャーズと同じリバティ・レーベルからモップスの発売を決めてくれた。

第1弾シングルは「ジェニ・ジェニ'70/パーティシペイション(参加)」(1970年5月5日)A面はリトル・リチャードのヒット曲をモップスの解釈でカヴァーした曲であり、B面は英語詞によるモップス・オリジナル曲

第2弾シングルは「朝日のあたる家/ボディー・アンド・ソウル」(1970年8月25日)

A面はアニマルズのカヴァー、B面は英語詞によるモップス・オリジナル曲

第3弾は「御意見無用/アローン」(1971年1月25日)、「御意見無用」と書いて「Iijanaika(いいじゃないか)」と読ませるこの曲は、日本独自のロックを作っていこうという意識のもとにハードロックのサウンドに阿波踊りのリズムを取り入れたユニークな作品で、モップス独自の世界が出来上がっていた。「御意見無用(Iijanaika)」は英語詞と日本語と両方でレコーディングされた。日本語でも外国に通用するだろうとの意識だった。

ロック・ファンやインテリ層には受け入れられたモップスだったが、大ヒットするまでには至らなかった。ちなみに松任谷由実さんにお会いした時に「わたし、モップスの追っかけでした」と言われたことを思い出した。



そして「月光仮面/アジャ」(1971年3月25日)がヒットした。

「月光仮面」について詳しくは3月25日の「月光仮面」発売日に改めて書きます。


やっと世間一般にも認識してもらい始めた。ただし、「月光仮面」しか知らない人たちにはコミック・バンドのようにみられていた節もあった。


「月光仮面」のヒットにより、それまで以上にバンドとしての試行錯誤は続いた。

浪曲を取り入れた「森の石松/まるで女の様に」(1971年9月25日)、河内音頭のリズムを取り入れた「なむまいだあ─河内音頭より─/サンド・バッグの木」(1972年2月5日)などである。

その間1971年に放映されたモービル石油のCM「のんびり行こうよ」編で、オーバーオールを着た鈴木ヒロミツがガス欠のクラシックカーを押す青年の役を演じ、昭和の名CMの一つとなったことでヒロミツの持つキャラクターも浸透していった。

その頃ヤマハ音楽振興会にいた僕の友人から「'71作曲コンクール(第3回)」にフルバンドの編成とモップスの共演で参加できないか?と打診があった。ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズやシカゴのようなブラスロックも面白いと思い、モップスに相談した。ヒロミツの意見で星勝のアレンジの才能を見せるためにも積極的に参加しようということになった。

結果は見事グランプリを受賞した。楽曲『雨』は作詞:森田純一/作曲:菅節和/編曲:モップス/演奏:モップスである。シングルは「雨/迷子列車」(1972年5月5日)


そして音楽仲間から楽曲を提供してもらいモップスの独自のロックを作ってみようとの発想でアルバム『モップスと16人の仲間』(1972年7月5日発売)を作った。

この中で吉田拓郎が作曲した「たどりついたらいつも雨ふり」がヒロミツの歌とマッチして一番の出来上がりだった。

この曲のヒットにより、やっと鈴木ヒロミツとモップスがロック・バンドとして一般にも認められた。


その後、鈴木ヒロミツはテレビドラマ「時間ですよ」、「夜明けの刑事」などに出演し俳優・タレントとしての活動が増えていった。星勝はアレンジャーとして、またモップスのメンバーは音楽中心の活動になりモップスは解散した。

その後もヒロミツはGS特集のテレビ番組などには元モップスとして歌の出演もしていた。


そしてある日ヒロミツが体調不良で診察を受けた際には既に肝細胞癌が進行していた。告知も冷静に受け止めたヒロミツは入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。

2007年3月14日午前10時02分、60歳で逝去。

亡くなる1週間前に行ったインタビューと、病床で書いた妻と子供への手紙をまとめた単行本『余命三カ月のラブレター』が死後出版された。

モップスと16人の仲間+2

余命三カ月のラブレター (幻冬舎文庫) 鈴木 ヒロミツ

モップス

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