2018年05月29日
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2018年05月29日
5月29日は日本を代表する歌姫・美空ひばりの誕生日。
美空ひばりは、「柔」「悲しい酒」といった大ヒット曲はもちろん、「哀愁波止場」「ひばりの佐渡情話」といった演歌の傑作群が名高い。だが、一方で「お祭りマンボ」「ロカビリー剣法」といったリズムものにも達者な腕前をみせている。こういったリズム感覚の鋭さ、センスの良さは、ひばりが師と仰いだボードビリアンで、あきれたぼういずの川田晴久からの影響が大きいとされている。初期のブギウギ作品などにはそういったリズムへの対応力の高さが既に現れており、これをリアルタイムで聴かされたら笠置シヅ子やサトウハチローでなくとも脅威をおぼえるのは間違いないだろう。
美空ひばりの、洋楽的なリズムへの対応力を証明しているのが、キャリアの随所に現れる、ジャズ・スタンダードのカヴァーの上手さである。1953年6月1日、16歳の誕生日を迎えた数日後に録音されたジャズ・スタンダードの「上海」は、おそらく筆者のように後追いでひばりの10代の頃の楽曲を聴いた身には、とてつもない衝撃だったと思われる。そのスウィングする歌いっぷり、ノリのよさ、英語と日本語を半々で歌っているが、何より英語発音の見事さに舌を巻く。美空ひばりは譜面が読めなかったことはよく語られており、英語が喋れたという話も聞かない。ということは、これは完全に耳コピであり、英語の発音も発声も、完全に音の1つとして捉えて歌っていることがよくわかる。
「上海」はドリス・デイが前年にヒットさせたスウィング系のジャズ・ヴォーカル・ソングだが、ひばりはデビュー間もない1950年に川田晴久に同行し、ハワイとアメリカ西海岸で公演を行っている。ここでは数少ない持ち歌に加え、「ボタンとリボン」などを英語カヴァーで歌い、日系人や現地アメリカ人から喝采を受けたという。こういった体験が、ひばりのジャズ・カヴァーに何らかの影響を与えたと考えるのもあながち間違いではないだろう。
さらに、1955年4月15日の録音である「A列車で行こう」は最初、日本語詞で歌い始め、2番から英語になり、「HURRY HURRY,」とリズミカルに歌い出し、途中で見事な高速スキャットを放ち、テンポの早い早口英語を完璧にモノにしているのは圧巻というほかない。これが天賦の才というものか。この英語→日本語、あるいは日本語→英語のスイッチの素晴らしさも彼女ならではのもので、外国曲を日本語にした際の違和感が全く感じられず、ごくナチュラルに同じリズムとヴォーカルの表情で歌いこなしているのである。しかも軽々と。
美空ひばりとジャズの組み合わせは、1960年代に入り再び登場してくる。61年5月に黒人ジャズ・シンガーのナット・キング・コールが初来日、この際に日本側から調達されたバンドが原信夫とシャープ&フラッツであった。そして、同年9月に美空ひばりはシャープ&フラッツをバックに、初の全曲ジャズ・アルバム『ひばりとシャープ』を発売している。これはひばりの要望によるもので、親友の江利チエミのステージに飛び入り参加してジャズを歌ったことがその契機だったという。アルバム制作にはチエミと高島忠夫がアイデアを持ち寄り、「虹の彼方」「セ・マニフィーク」など全8曲が選ばれた。全日本語詞は水島哲、アレンジには山屋清や前田憲男が加わり、公会堂を借りての一発録りである。ここで聴かれるひばりの歌唱は、既に定着していた低域を強調する粘っこいヴォーカル・スタイルによるもので、「ラブ・レター」の細部まで意識を行き届かせた繊細な歌唱法は、「上海」の頃にはなかった、新たなひばりジャズの進化形でもある。
1963年には再びシャープ&フラッツと組んでアルバムを制作する。イタリア民謡「帰れソレントへ」や韓国民謡「トラジ」、メキシコの「シェリト・リンド」など世界各国の民謡を一枚のアルバムに収めた『ひばり世界を歌う』がそれである。一口に世界の民謡といっても、リズム解釈もアクセントもすべて違う12種類の楽曲を完璧に自分のものにしており、しかも2日間書けてのリハ無し一発録りというから驚くべき完璧さだ。美空ひばりとは本当に何でも歌える歌手であったのだ。
そして、ひばりは65年に再びジャズに挑む。あの、原信夫とシャープ&フラッツが共演したナット・キング・コールがこの年の2月に他界。彼の歌に惚れ込んでいたひばりは、再び、しかも今度はほぼ英語を主体とした形でナット・キング・コールを追悼するアルバムを発表した。それが『ひばりジャズを歌う~ナット・キング・コールをしのんで』である。バックはもちろんシャープ&フラッツで、同バンド出身者である山屋清と大西修がアレンジを担当。この中で「スターダスト」「慕情」「ペイパー・ムーン」などが全編英語で軽やかに歌われているのだ。ことに絶妙のリズム感を発揮しているのが、漣健児訳詞による「ラヴ」、や「恋人よ我に帰れ」で、「夕日に赤い帆」の軽やかでありながら抜群の声の伸びを聴かせるヴォーカル・スタイルも驚愕である。
この時期、64年が「柔」、66年が「悲しい酒」をリリースした年である。それと同時期に、ここまで芳醇なジャズ・アルバムを発表しているのであるのだから、天才とはどういうことか、その振り幅の広さ1つをとっても理解できるだろう。
時は流れて1983年5月21日、美空ひばりは意外な新曲を発表した。来生えつこ、来生たかお姉弟のコンビの作詞作曲、編曲に坂本龍一を起用した和製スウィング「笑ってよムーンライト」である。やや重たくなりつつあったひばりのヴォーカルも、軽々とスウィングのリズムに乗り、小粋で洒脱なノリで抜群の表現力をみせている。レコーディングの際、ひばりは真っ赤なドレスで登場し、来生らスタッフを感激させたという。ひばり本人も、ポップスのマインドを未だ失っていなかった、そんなことを感じさせるエピソードである。
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。近著に『昭和歌謡職業作曲家ガイド』(シンコーミュージック)がある。
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