2018年09月17日
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2018年09月17日
ザ・ビートルズにはさまざまな「都市伝説」があり、巷をいまだに賑わせている話題も多い。その最たる例が「ポール死亡説」だろう。ウソかホントかわからないこうした「言い伝え」(そのほとんどがウソだと思うけれども)は、一言で言えば「後付けの楽しさ」に尽きる。「そういえば…」とか「あれがそうだったんじゃないか」とか、いわば血液型で性格を判断されて「たしかに思い当たるフシがある」と思うのと近い…のかもしれない。
69年夏ごろからアメリカ中西部の若い音楽ファンの間で、「ポールは死んでいる」という噂が流れ始め、9月17日にアイオワ州ドレイク大学の学生新聞『ノーザン・スター』に、「レボリューション9」(68年)を逆回転すると「オレをハイにしてくれ、死者よ」と聞こえるということを証拠として「ビートルズの一人ポール・マッカートニーは死んでいる?」と題した記事が掲載された。さらに9月22日にはイリノイ大学の学生新聞にも、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」(67年)の最後に「私はポールを埋葬した」という声が聞こえるという記事が掲載された。
そして、9月26日(アメリカは10月1日)の『アビイ・ロード』発売後は、新作のジャケットに手掛かりがあるという騒動にまで発展した。いわく、ポールの裸足は死者を意味し、ほかの3人は葬列に参加しているのを表わしている(ジョンは牧師、リンゴは葬儀屋、ジョージは墓掘り職人夫…)とか、左利きのポールが右手でタバコを持っているのはニセモノだからだとか、停車しているフォルクス・ワーゲンのナンバーの〈28 IF〉は、「もし彼が生きていたら28歳」という意味がある……など、これでもかという「後付け」情報が世界中を駆け巡った。当時、ポール自身もジョンの脱退宣言にショックを受けてスコットランドで隠遁生活をしていて連絡がつきづらくなっていたことも、噂に信憑性を高めた。
死亡理由は、66年11月9日、レコーディング中に口論でスタジオを飛び出したポールが怒りにまかせて猛スピードを出し、自動車事故を起こして亡くなった、というもの。ちなみに11月9日はジョンがヨーコと出会った日で、ビートルズは活動を休止している時だった。亡くなったポールの代役は、ポールのそっくりさんコンテストの優勝者「ウィリアム・シアーズ・キャンベル」。イギリスのファンクラブの会報誌の67年2月号に、早速この噂を否定する記事が出たので、『アビイ・ロード』発売の数年前から「ポール死亡説」はファンの間では認識されていたようだ。もしポールが66年に本当に亡くなっていたとしたら、「ウィリアム・シアーズ・キャンベル」は、「ヘイ・ジュード」や「レット・イット・ビー」を書いた凄いメロディメイカーだということになる。
69年10月21日に、ザ・ビートルズの広報担当のデレク・テイラーが「噂が出回ってから2年近くになるが、ポールはいまでも健在だ」と「死亡説」を否定するコメントを発表した。その間、ワーブリー・フィンスター(ホセ・フェリシアーノの変名)の「ソー・ロング・ポール」やミステリー・ツアーの「ザ・バラード・オブ・ポール」など、「ポールへの追悼曲」まで発売されたが、11月の『ライフ』誌にポール本人のインタビューが掲載されて、「生存」が確認されたのだった。
ビートルズ解散後も、ジョンが『イマジン』(71年)に収録されたポールへの当てつけ曲「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」で「死亡説」を蒸し返したほか、ポールもライヴ・アルバム『ポール・イズ・ライヴ』(93年)で、『アビイ・ロード』をもじったジャケットと、「ライヴ」と「生存」を引っかけたタイトルで「死亡説」を自ら茶化した。しかもフォルクス・ワーゲンのナンバーは〈51 IS〉(彼は生きているので51歳)という凝りようである。
…と、このように「ポール死亡説」にまつわるエピソードはたくさんあるが、「当事者」が無関係だったと断言できるかというと、必ずしもそうではない。69年秋と言えば、アルバム『アビイ・ロード』がちょうど発売された時期である。まさかSNS時代を先取りしたかのように、ウソの情報を自ら流して話題を振りまき、売り上げをさらに上げようと思ったわけでもあるまい。そんなことをしなくても十分に売れたからだ。だとすると、ちょっとした悪戯心が働いたのかもしれない。
SNSといえば、もうひとつ、なんとリンゴが2015年に「ポールは実際に66年に亡くなっていて、その後のポールは“ビリー・シアーズ”という名前の替え玉だった」とインタビューに答えたという話がインターネットを通じて世界に広く伝わったのだ。「まさかリンゴがそんなことを言うはずがない。冗談でしょ」と思っていたら、これ、いわゆるフェイクニュースというやつだった。「ポール死亡説」に関しては、「都市伝説」に関してさらにニセ情報を流す、というSNS全盛時代ならではの話題まで登場する始末である。
ちなみにリンゴは69年当時、「ポール死亡説」について訊かれてこんなふうに返したという――「まだ葬儀の案内が来ていないんだけどな」。
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):『ビートルズ・ストーリー』編集長。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』『ビートルズは何を歌っているのか?』『ビートルズはここで生まれた』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめ ビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
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