2018年04月24日
スポンサーリンク
2018年04月24日
「動く4人」の生身の映像を初めて観たファンの衝撃は、どれぐらい大きかったのだろうか。ザ・ビートルズの日常をセミ・ドキュメンタリー風に仕上げた初の主演映画『ハード・デイズ・ナイト』(公開当時の邦題は「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」)のことである。64年3月2日に始まった撮影が終了したのは4月24日のことだった。
とはいえ、まだアルバムを2枚しか発売していないイギリスの「新人」の主演映画が、世界的な大ヒット作になるとは誰も思わなかっただろう。製作期間も2ヵ月足らずと短く、予算もわずか56万ドル。しかもモノクロ映像である。しかし、モノクロだったからこそ味わいが増した。
50年代半ばにイギリスに移住したアメリカ人のリチャード・レスターが、アメリカ人のプロデューサー、ウォルター・シェンソンの依頼で監督を務め、脚本はリヴァプール出身のアラン・オーウェンが手掛けた。ウォルター・シェンソンは「メンバーそれぞれの個性を基本にしたストーリー」を思い描き、脚本を担当したアラン・オーウェンは「ストーリーは4人を取り巻く出来事や4人の性格をもとに自然に出来上がっていくだろう」と考えていたという。また、彼らの魅力を肌で理解していた監督のリチャード・レスターは、こんなふうに言っている。
「映画はその時代を映す鏡なんだ。僕の前には、映すのにもってこいの素晴らしいイメージがあった。彼らのエネルギーと独創性だ」
ロンドンで行なわれるテレビ・ショーに出演するビートルズの2日間をドキュメンタリー・タッチで追った『ハード・デイズ・ナイト』には、「エネルギーと独創性」を転化したビートルズならではの風刺・諧謔・ユーモアがふんだんに盛り込まれた。まるで実際の記者会見やインタビューでの4人のやりとりを見聞きしているかのような錯覚にとらわれるほど、アイドル時代の「素顔」が存分に描かれている。
もちろん彼らが人前で演技をするのは初めてのことだったが、「役者じゃないので、演技についてはよくわからなかった」(ポール)からこそ、4人のありのままの日常が生き生きと描かれた作品に仕上がったのだ。
撮影はほぼ映画の流れに沿って行なわれ、列車内、パブ、ホテルなど順調に進んでいった。初日にはジョージとパティ・ボイドの運命的な出会いもあった。映画のハイライトとなったスカラ・シアターでのライヴ・シーンを3月24日に撮り終えたのに続き、4月5日には、もうひとつのハイライトとなったオープニング・シーンが撮影された。熱狂的なファンに追いかけられた4人があの手この手で駅構内を逃げ回る、という当時のビートルズの人気の凄さがそのまま描写された名場面である。
そして4月24日の午前中に撮られた最後の場面は、リンゴが貴婦人のために「親切心」を見せた、俳優リンゴの誕生とも言えるこれまた名シーンだった。
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):ビートルズ・ストーリー編集長。91年に(株)音楽出版社に入社し、『CDジャーナル』編集部に所属(2011年に退社)。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめザ・ ビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
ザ・ビートルズにはアコースティック・ギターの名曲がたくさんあるが、「イエスタデイ」と並びその筆頭に挙げられるのが、同じくポールが書いた「ブラックバード」だろう。いつの頃からか、「ブラックバード」...
1962年6月6日、ザ・ビートルズはEMI(アビイ・ロード)スタジオで初のスタジオ・セッションを行なった。あえて「セッション」と書いたのは、長年「オーディション」と言われていたこの日の演奏が、実...
ザ・ビートルズには秀逸な邦題がたくさんあるが、この曲も印象深い。原題の「チケット・トゥ・ライド」に対して担当ディレクターの高嶋弘之氏が名付けたのは、本稿の“主役”である「涙の乗車券」である。4月...
1963年3月23日、既発シングル2曲計4曲を含む全14曲が収録されたザ・ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がイギリスでリリースされた。イギリスで30周連続1位という驚異...
67年3月11日は、ディック・クラークが長年(1957年から89年まで)司会を務めたテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』で、ザ・ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニ...
ザ・ビートルズにはさまざまな「都市伝説」があり、巷をいまだに賑わせている話題も多い。その最たる例が「ポール死亡説」だろう。69年夏ごろからアメリカ中西部の若い音楽ファンの間で、「ポールは死んでい...
69年9月13日、ジョン・レノンは、自分のバンド、プラスティック・オノ・バンドとともに、カナダのトロントで「お披露目」ライヴを行なった。ザ・ビートルズの実質的なラスト・アルバム『アビイ・ロード』...
ノリの良い軽快なロックに絶妙のコーラスが加わった、ザ・ビートルズ中期の傑作シングル――65年7月23日に10枚目のシングルとして発売され、9月4日に全米(ビルボード)チャートで1位に輝いた「ヘル...
ドでかい会場に5万人を超える観客が集まり、そこで人気バンドがコンサートを行なう。日本も海外も、毎日とは言わないまでも、日常化しているスタジアム・ライヴのあり方だ。それを半世紀以上前に最初に実現さ...
1970年4月10日、新学期が始まったばかりの夕方、帰宅して僕が開いた夕刊には「ポール、ビートルズを脱退」の記事が大きく載っていた。翌日、4月11日「レット・イット・ビー」はビルボード誌のシング...
70年4月17日に発売されたポール・マッカートニーの初ソロ・アルバム『マッカートニー』は、ザ・ビートルズ時代の名曲・名演を期待していたファンに、思いっきり肩透かしを食らわせた。全14曲中、ヴォー...
ザ・ビートルズが、自身の会社アップルの事務所をロンドンに開いたのは1968年4月6日のこと(4月16日、22日説もある)。自分たちの目の届く範囲で、独創的なアイデアを幅広く集結させながらやりたい...
ザ・ビートルズが全米ヒット・チャートに遺した前人未到の記録の中でも、とりわけ華々しく語られているのが、シングル・ランキングのトップ5独占であろう。日付は1964年4月4日。ビルボード誌Hot 1...
今から38年前の今日1980年1月16日、ウイングス初の日本公演ツアーのため成田に到着したポール・マッカートニーが税関で逮捕。9日間に亘る勾留生活秘話と驚愕の“シークレット・ライヴ”。text ...
1月3日はビートルズの育ての親であるプロデューサー、ジョージ・ヘンリー・マーティンの誕生日である。ジョージは6歳でピアノを始め、音楽にのめり込んでいったものの、「仕事」にする気にはならず、最初に...
1962年1月1日は、ビートルズがデッカのオーディション受けた日である。よりによって、元旦にレコード会社のオーディションが行なわれることになるなんて、リヴァプールの「片田舎」からロンドンの「都会...
1962年9月11日のビートルズのデビュー・シングル・セッションは、新参者だったリンゴ・スターにとって、一生忘れることのできない思い出の日になったに違いない。1週間前の9月4日にまずEMIスタジ...
曲の出だしやアルバムの1曲目で聴き手を「アッ」と驚かせる。ビートルズにはそうした工夫や仕掛けが多い。カウントで始めたり、いきなり歌い出したり、SE(効果音)を入れてみたり、という具合にだ。そんな...
62年8月16日は、ビートルズのドラマーがピート・ベストからリンゴ・スターに代わった「歴史的」な日である。「歴史的」とつい書いてしまったが、そう書けるのはビートルズが「歴史的」な存在になったから...
ビートルズ来日50周年を記念して誕生したアップル・コープ社公認のTHE BEATLESオフィシャルウォッチ。大人のビートルズ・マニアには堪らない全世界限定1966個のプレミアム商品。大人のビート...
本日はリンゴ・スターの誕生日。懐かしきブリティッシュ・ビート時代の名ドラマーには、洒落たドラミングのテクニシャンが何人もいたけれど、リンゴ・スターはむしろその対極だった。重く深いビート感を持ちな...
映画『ハード・デイズ・ナイト』は、64年7月6日にロンドンのパヴィリオン劇場で初公開された。ロンドンで行なわれるテレビ・ショーに出演するビートルズの2日間をドキュメンタリー・タッチで追ったこの瑞...
本日7月5日は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の日本発売の日である。いわずとしれたビートルズの最高傑作盤と知られている。しかし60年代当時この盤を買った若者の間での評...
あのつぶらな瞳と、すきっ歯を見せた笑顔で見つめられたら…。そんな思いでビートルズの「サムシング」(69年)のプロモーション・ヴィデオを観たビートルズ・ファンは、いったいどれぐらいいるだろうか。こ...