2018年09月04日
スポンサーリンク
2018年09月04日
ノリの良い軽快なロックに絶妙のコーラスが加わった、ザ・ビートルズ中期の傑作シングル――65年7月23日に10枚目のシングルとして発売され、9月4日に全米(ビルボード)チャートで1位に輝いた「ヘルプ!」の一般的な評価を言葉にするなら、たとえばこんな感じになるだろう。2作目の主演映画の主題歌として、アルバムの先行シングルとなったこの曲は、ポール・マッカートニーの「アイム・ダウン」をB面に押しやり、ハリウッド・ボウルやシェイ・スタジアム公演をはじめ、65年のライヴのハイライトの1曲ともなった。
ビートルズの前期はジョン・レノンの曲がシングルのA面に収まることが多く、アルバムの1曲目もほとんどジョンが中心となって書いた曲が収められている。そう思うと、この「ヘルプ!」までが、ジョンがある意味「輝いていた」時代だったと言えなくもない。
映画主題歌は、前作『ハード・デイズ・ナイト』の時もそうだったが、『ヘルプ!』の時も曲が書けずに難航した。というのも、監督のリチャード・レスターが、映画のタイトルを当初『エイト・アームズ・トゥ・ホールド・ユー』と名付けていたからだ。ジョンとポールはそのタイトル曲が書けず(あるいは書かず)、代わってジョンがアイドルとしての苦悩を抱え込んだなかで書き上げた曲、それが「ヘルプ!」だった。
曲の登場人物は「特定の人物」に救いを求めているが、これがジョン自身の「心の叫び」だったとは、当時誰が想像し得ただろうか。
「〈ヘルプ〉を作った時、僕は本当に助けを求めて叫んでいたんだよ。“太ったエルヴィス時代”だった。完全に自分を見失っていたね」(ジョン)。
70年に『ローリング・ストーン』編集長のヤン・ウェナーとのインタビューでジョンはそう明かしたが、この時期、ジョンにとってボブ・ディランの存在は限りなく大きかった。64年1月にツアーで訪れたフランスでディランのセカンド・アルバム『フリー・ホイリーン・ボブ・ディラン』を聴き、衝撃を受けたビートルズの4人。“アメリカを制覇しエルヴィス・プレスリーを超える”存在となったジョンにとって、まさにプレスリーに代わる新たなヒーロー、そしてライバルとして登場したのがディランだったとも言える。
64年8月に録音された「アイム・ア・ルーザー」についてジョンは、「自己表現した初めての曲。気づかせてくれたのはディランだったと思う」と語っているが、歌詞もそれまでのラヴ・ソングから内省的な内容に変わるなど、64年から65年にかけて、ディランがジョンの曲作りにもたらした影響は実に大きかった。
サングラスをかけ、ハーモニカ・ホルダーを首から下げて「アイム・ア・ルーザー」を演奏するジョンは、ディランそのものだった。「『ヘルプ』はマリファナで作った」というジョンの言葉を持ち出すまでもなく、4人はディランと出会ってからドラッグを多用するようにもなった。「ヘルプ!」が完成する前の65年2月には、ジョン版「時代は変わる」とも言うべき「悲しみはぶっとばせ」も映画『ヘルプ!』の挿入歌としてレコーディングされている。ジョンの“太ったエルヴィス時代”は、“憧れのディラン時代”でもあったのだ。
≪著者略歴≫
藤本国彦(ふじもと・くにひこ):『ビートルズ・ストーリー』編集長。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』『ビートルズは何を歌っているのか?』『ビートルズはここで生まれた』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめ ビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
日本で一番人気のあるザ・ビートルズの曲は、「ヘルプ!」かもしれない。テレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』のテーマ曲をはじめ、使用される機会は非常に多い。とにかくノリがよくてかっこいい(ビ...
ザ・ビートルズにはアコースティック・ギターの名曲がたくさんあるが、「イエスタデイ」と並びその筆頭に挙げられるのが、同じくポールが書いた「ブラックバード」だろう。いつの頃からか、「ブラックバード」...
1962年6月6日、ザ・ビートルズはEMI(アビイ・ロード)スタジオで初のスタジオ・セッションを行なった。あえて「セッション」と書いたのは、長年「オーディション」と言われていたこの日の演奏が、実...
ザ・ビートルズには秀逸な邦題がたくさんあるが、この曲も印象深い。原題の「チケット・トゥ・ライド」に対して担当ディレクターの高嶋弘之氏が名付けたのは、本稿の“主役”である「涙の乗車券」である。4月...
1963年3月23日、既発シングル2曲計4曲を含む全14曲が収録されたザ・ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がイギリスでリリースされた。イギリスで30周連続1位という驚異...
本日1月8日は、“キング・オブ・ロックンロール”エルヴィス・プレスリーの誕生日。1935年生まれなので、生きていたら84歳ということになる。特に彼の誕生日を意識したわけではないのだが、お正月を迎...
ザ・ビートルズの「抱きしめたい」は、レコード・デビューから約1年後の1963年11月29日に、イギリスでの5枚目のシングルとして発売された。それ以前の3枚のシングル――「プリーズ・プリーズ・ミー...
ティナ・ターナーは、すでに伝説のロックンローラーであり、ソウル・アーティストであり、エンタテイナーだ。1960年代からアイク&ティナ・ターナーとしてヒットを出し、暴力夫のアイク・ターナーと別れて...
1969年10月31日にリリースされた「サムシング」と「カム・トゥゲザー」は『アビイ・ロード』からのシングル・カット。もともとは「サムシング」がA面扱いでアメリカでは3位、「カム・トゥゲザー」は...
ザ・ビートルズにはさまざまな「都市伝説」があり、巷をいまだに賑わせている話題も多い。その最たる例が「ポール死亡説」だろう。69年夏ごろからアメリカ中西部の若い音楽ファンの間で、「ポールは死んでい...
69年9月13日、ジョン・レノンは、自分のバンド、プラスティック・オノ・バンドとともに、カナダのトロントで「お披露目」ライヴを行なった。ザ・ビートルズの実質的なラスト・アルバム『アビイ・ロード』...
ドでかい会場に5万人を超える観客が集まり、そこで人気バンドがコンサートを行なう。日本も海外も、毎日とは言わないまでも、日常化しているスタジアム・ライヴのあり方だ。それを半世紀以上前に最初に実現さ...
本日、5月24日はボブ・ディランの誕生日である。 ボブ・ディランがフジロックに出演する。うれしい驚きだ。これまでも何度かうわさに上がったことがあったが、まさか実現するとは思っていなかった。ボブ...
「動く4人」の生身の映像を初めて観たファンの衝撃は、どれぐらい大きかったのだろうか。ザ・ビートルズの日常をセミ・ドキュメンタリー風に仕上げた初の主演映画『ハード・デイズ・ナイト』(公開当時の邦題...
1970年4月10日、新学期が始まったばかりの夕方、帰宅して僕が開いた夕刊には「ポール、ビートルズを脱退」の記事が大きく載っていた。翌日、4月11日「レット・イット・ビー」はビルボード誌のシング...
70年4月17日に発売されたポール・マッカートニーの初ソロ・アルバム『マッカートニー』は、ザ・ビートルズ時代の名曲・名演を期待していたファンに、思いっきり肩透かしを食らわせた。全14曲中、ヴォー...
ザ・ビートルズが、自身の会社アップルの事務所をロンドンに開いたのは1968年4月6日のこと(4月16日、22日説もある)。自分たちの目の届く範囲で、独創的なアイデアを幅広く集結させながらやりたい...
ザ・ビートルズが全米ヒット・チャートに遺した前人未到の記録の中でも、とりわけ華々しく語られているのが、シングル・ランキングのトップ5独占であろう。日付は1964年4月4日。ビルボード誌Hot 1...
1月3日はビートルズの育ての親であるプロデューサー、ジョージ・ヘンリー・マーティンの誕生日である。ジョージは6歳でピアノを始め、音楽にのめり込んでいったものの、「仕事」にする気にはならず、最初に...
1962年1月1日は、ビートルズがデッカのオーディション受けた日である。よりによって、元旦にレコード会社のオーディションが行なわれることになるなんて、リヴァプールの「片田舎」からロンドンの「都会...
1975年10月30日、ボブ・ディランはマサチューセッツ州プリマスのウォー・メモリアム・オーディトリアムから新しいツ アー、ローリング・サンダー・レヴューをスタートさせた。 「さあ、田舎を回って...
1962年9月11日のビートルズのデビュー・シングル・セッションは、新参者だったリンゴ・スターにとって、一生忘れることのできない思い出の日になったに違いない。1週間前の9月4日にまずEMIスタジ...
曲の出だしやアルバムの1曲目で聴き手を「アッ」と驚かせる。ビートルズにはそうした工夫や仕掛けが多い。カウントで始めたり、いきなり歌い出したり、SE(効果音)を入れてみたり、という具合にだ。そんな...
昨2016年のノーベル文学賞はボブ・ディランが受賞した。フォーク・シンガーのディランがノーベル文学賞なんてと、青天の霹靂のごとく驚いた人もいたかもしれない。しかしボブ・ディランがノーベル文学賞を...
1969年8月31日、ワイト島で開催されたフェスティヴァルでのことだった。「みんな、さあ、座ってくれ。ザ・バンドとボブ・ディランを迎えよう」のMCに続いて、当時、ライヴから遠ざかっていたボブ・デ...