2018年12月26日
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2018年12月26日
フィル・スペクターが今年の12月26日に78歳になる。2003年、女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕され、スペクター自身は彼女が自殺したのだと容疑を否認していたが裁判の結果第2級殺人罪で禁固19年の有罪判決が下り、現在カリフォルニア州立刑務所で服役中である。
17歳の時に父親の墓碑に記されていた言葉からヒントを得て書いた「会ったとたんに一目ぼれ(To Know Him Is To Love Him)」を高校の仲間と作ったザ・テディ・ベアーズというグループでヒットさせ、わずか20歳でレスター・シルという音楽業界の実力者(彼の業績は色々あるが、この時点でもっとも知られていたのはジェリー・リーバーとマイク・ストーラーという作家・プロデューサー・チームの才能をいち早く見出したことだろう)のバック・アップを得てフィレス・レコードという自分のレコード・レーベルを起ち上げ、黒人女性グループのクリスタルズやロネッツ、そして白人男性デュオのライチャス・ブラザーズの「ふられた気持」など数多くのヒットをだし、70年代に入るとビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』やジョン・レノンやジョージ・ハリスンのソロアルバムのプロデュースを手掛けるなど、音楽業界の天才プロデューサーとして、知らない者はいないと言われた素晴らしい業績を残したフィル・スペクターが何故殺人犯として服役するようになってしまったのだろうか?
勿論、80年代以降の仕事が思ったように行かなかった、というフラストレーションのせいだと思う人もいただろうし、70年頃から精神病院に入院したりして、それ以降、精神状態が不安定だったことはジョン・レノンのレコーディング中の拳銃事件の例を挙げるまでもなく知られていることなので、それが原因に違いないと考えている人も多いだろう。
しかし、フィル・スペクターの作品が大好きで、プロデューサーとしてもレーベル経営者としても彼の仕事を尊敬している僕としては、その原因が1963年に発売されたフィレス・レコードのアーティストを総動員して作ったクリスマス・アルバム『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー(フロム・フィル・スペクター)』の思いもかけない悲劇にあったのではないかと思っている。
このアルバムはクリスタルズの「ダ・ドゥー・ロン・ロン」やロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」という大ヒットの出た63年の11月22日に発売された。クリスタルズやロネッツの他にダーレン・ラヴ、ボブ・B・ソックス&ザ・ブルー・ジーンズといったフィレス・レコードのヒットアーティストがダーレン・ラヴの歌う「クリスマス(ベイビー・プリーズ・カム・ホーム)」というオリジナル曲以外の12曲の有名なクリスマス・ソングをスペクター・サウンドで歌った素晴らしい出来のレコードだった。スペクターの作ったアルバムの中でも最高と言える。
フィル・スペクターとしても“やったぜ!!”という、その自信のほどは自分で記したライナーノーツにもよく表れている。
そんな自分の最高の作品を満を持して発表し”さあ、どうだ!!”と思っていたら、その発売日にケネディー大統領がテキサス州のダラスで暗殺され、アメリカのラジオはクリスマス・ソングなど一切かからない状態になり、残念ながらスペクターの渾身の作品はスペクターの考えていたものとは程遠い、アルバムチャートの13位までしか上がらなかった。もし事件が起こっていなかったら、このアルバムは1位を何週間も続けていたであろうことは容易に想像できる。
この不幸な出来事が、繊細だったフィルの精神を痛めつける、大きな原因になったのではないかと僕はずっと思っている。それまで、ずっとやることなすこと成功を収めて来ていたフィルにとって、このアルバムの大ヒットは彼の次の段階への大きなステップを約束するものであったはずのものだったのが、思わぬ不可抗力によって崩れ去ってしまったのだから、そのショックの大きさはフィルの自尊心を打ち砕き、それまでも安定していたとは言えない彼の精神状態を一挙に不安定なものにしたに違いない。
このアルバム以降のフィルの制作するレコードのエコーの量がどんどん増えていき、大ヒットとなったライチャス・ブラザーズの「ふられた気持」でさえもかなりオーヴァーエコーと思われたが、66年のアイク&ティナ・ターナーの「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」の頃にはエコーが多すぎてバックのサウンドがどうなっているのかさえ分からないようなものになっていたのも、そうした精神の不安定さが影響していたのではないかと考えられる。
そうした意味でも、ウォール・オブ・サウンドが完璧に実現されているこのクリスマス・アルバムを是非もう一度聴いて、フィル・スペクターの才能がどれほど素晴らしいものであったのかを改めて実感して貰えると幸いだ。
≪著者略歴≫
朝妻一郎(あさつま・いちろう):(株)フジパシフィックミュージック代表取締役会長、日本音楽出版社協会顧問(元会長)。音楽評論家、音楽プロデューサー。高校時代にポール・アンカのファンクラブ会長に就任。高崎一郎の知遇を得、アシスタントとしてニッポン放送で選曲や台本書きのアルバイトを務める。1963年より会社員生活の傍ら、レコード解説の執筆を始める。1966年パシフィック音楽出版(PMP、現フジパシフィックミュージック)に入社。契約を担当する一方、ディレクターとしてザ・フォーク・クルセダーズやジャックスのレコード制作を手掛ける。以来、大瀧詠一、山下達郎、サザンオールスターズ、オフコース等、数多くのアーティストに関わる。
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