2016年12月26日
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2016年12月26日
60年におよぶ長きロック・ミュージックの歴史において、本来は裏方であるはずのレコード・プロデューサーが、フロントに立つシンガーやグループよりも目立ってしまった稀有な例といえるフィル・スペクターは、2016年の現在においても、プロデューサーとして世界でもっとも名の知れた人物といえる。
1940年12月26日、ニューヨークのブルックリンでユダヤ系移民の両親のもとに生まれたハーヴェイ・フィリップ・スペクターは、ロサンジェルスで青春時代を過ごす。高校3年だった57年に同級生たちと結成したグループ、テディ・ベアーズで吹き込んだシングル「会ったとたんに一目ぼれ(To Know Him Is To Love Him)」が翌58年に全米ナンバーワンの大ヒットになったことで、小柄でやせっぽちだが、やたらと自意識が強い孤独な青年の運命は決定したといえるだろう。
60年代になると、スペクターはニューヨークに出て、大物プロデュース・チームであるジェリー・リーバー&マイク・ストーラーの下でプロデューサーとしての修行を行なう。自意識過剰だった彼は、ブリル・ビルディング周辺を歩きまわっては、持ち前の図々しさで独自のコネを獲ることに注力するいっぽうで、リーバー=ストーラーがドリフターズの「ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー」で試みたような、R&Bのリズムとオーケストラとを融合させるポケット・シンフォニー的なサウンド作りのノウハウをしっかりと自分の頭にたたき込み、これがのちの代名詞“ウォール・オブ・サウンド(註:音で壁を作るような重厚かつ壮大なエコー・サウンドのこと)”へとつながってゆくことになる。
61年、ロサンジェルスへと戻ったスペクターは、自身のレーベル、フィレスを設立。クリスタルズの「ヒーズ・ア・レベル」(62年)、「ダ・ドゥ・ロン・ロン」(63年)、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」(63年)といった曲を次々とヒットさせたが、これらはアメリカン・ポップス華やかなりし時代における最高のロックンロール芸術品といえるものだった。
スペクターのプロデュース手法がユニークだったのは、曲の選定から、ミュージシャンの演奏、シンガーの歌い方、スタジオの音の響き方まで、レコード作りにかかわるすべてを自身で精密にコントロールしたことだ。フィレスでの多くのセッションに参加したシンガーであるダーレン・ラヴに筆者がインタビューした際、歌の上手さに定評のあるラヴに対し、スペクターはこと細かに歌い方を指示したそうで、曲の後半になるまで、自由に歌うことは許されなかったという。ラヴから見たスペクターは、まるでサーカス団の団長のようだった。
“曲が売れるか否かは、最初の一分間にかかっている”
そんなヒット・レコードの鉄則を十二分に理解していたからこそ、自分の信念を曲げることなく、最高のレコード芸術として結実させたフィル・スペクター。その後はビートルズ作品にも関わり、70年代にはジョン・レノンとのレコーディング・セッションの最中、マスター・テープを持って行方をくらませたり、2003年には自宅で女優を射殺した容疑で逮捕されたりと、数々の奇行でもゴシップ誌を賑わせるなどしてきた彼だが、「ヒーズ・ア・レベル」や「ビー・マイ・ベイビー」といった名曲が、未来永劫ポップス・ファンの心を震わせ続けるという事実には、何の変化もないのだ。
≪著者略歴≫
木村ユタカ(きむら・ゆたか):音楽ライター。レコード店のバイヤーを経てフリーに。オールディーズ・ポップスを中心に、音楽誌やCDのライナーに寄稿。著書に『ジャパニーズ・シティ・ポップ』『ナイアガラに愛をこめて』『俺たちの1000枚』など。ブログ「木村ユタカのOldies日和」もマイペース更新中。
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