2018年12月27日
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2018年12月27日
年の瀬も迫った12月27日に、加藤登紀子は生まれた。生まれた場所は、日本から遠く離れた満州国のハルビン、父親は南満州鉄道に務めていたという。終戦の年に、ハルビンから親子四人で命からがら引き挙げてきた。その過酷さは、幼かった彼女の心にも存分に染みついているはずだ。
古い世代なら、ギターを片手に歌った「ひとり寝の子守唄」を覚えているだろう。この曲で加藤登紀子は69年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後の71年の「知床旅情」のヒットもあり、”フォークの加藤登紀子”として耳馴染んでいることと思う。
デビューのきっかけとなったのは、東京大学に在学中の65年に日本アマチュア・シャンソン・コンクールに出場し、見事に優勝したことからだ。翌年に、なかにし礼が作詞し、中島安敏が作曲した和製シャンソン「誰も誰も知らない」でデビューを果たすが売れず。セカンド・シングルの「赤い風船」で日本レコード大賞の新人賞を受賞するも、大きな知名度を得るには至らなかった。「ひとり寝の子守唄」の大ヒットまでに、通算12枚のシングルを発表することとなるのだ。
音楽面で転機となったのは、1974年に発表したアルバム『この世に生まれてきたら』あたりからだろうか。この作品で、センチメンタル・シティ・ロマンスのギタリストであった告井延隆と出会う。その後、告井は加藤登紀子のミュージカル・アドヴァイザーのような立場となり、ライヴでもセンチメンタル・シティ・ロマンスをバックに歌う事が多くなったのだ。
80年代に入っても加藤登紀子の冒険は続き、オノ・ヨーコの「グッバイ・サドネス」を日本語でカヴァーしたり、レナード・コーエンの「哀しみのダンス」を取りあげたりもした。82年には、坂本龍一をプロデューサーに迎え入れ、クルト・ワイルの「三文オペラ」や、ヨーロッパの映画音楽をカヴァーした意欲作『愛はすべてを赦す』を発表した。
また1984年には、ムーンライダーズの白井良明、武川雅寛、岡田徹、かしぶち哲郎、鈴木博文らを招き入れ、傑作『最後のダンスパーティー』をリリースしている。なお、このアルバムに収められていた「難破船」は、中森明菜が歌い大ヒットを記録した。
これらの意志をもった音楽的な冒険が、「百万本のバラ」の大ヒットにも繋がっていったのだと思う。この曲はもともとラトビアの流行歌であったのだが、英語圏やロシア語圏でも数多くの歌手によって歌い継がれていた。加藤登紀子もこの曲が気に入り、自らが歌詞を書き、87年のアルバム『MY STORY〜時には昔の話を〜』に収録。ヒットしたのは、その2年後のこと、人づてに評判となり大きな支持となっていった。
その後も、ソウル・フラワー・ユニオンの伊丹英子らが主催する沖縄の辺野古でおこなわれた野外フェスに出演したり、フジロック・フェスに参加したり、その行動はアクティビティーに溢れているのだ。
加藤登紀子「赤い風船」 「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
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