2018年04月10日
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2018年04月10日
放送作家、作詞家、エッセイスト、司会者など幅広い分野で活躍した才人・永六輔が天界へと旅立ったのは2016年7月7日のことだった。前立腺癌とパーキンソン病という病気との闘いが長く続いた中でも、常にユーモアを交じえた話しっぷりで大衆を楽しませることを信条とした。各地での公演活動や著書の発表など精力的に活動を続け、ライフワーク的に取り組んだラジオパーソナリティーでは、最後のレギュラー番組となった『六輔七転八倒九十分』が亡くなる直前の6月いっぱいまで続いた。かつての仲間で晩年は特に親交が深かったという大橋巨泉の訃報が、永の逝去からわずか5日後に届いたのも忘れられない。その年の2月には二人揃って『徹子の部屋』に出演しており、共に病気と懸命に闘う姿を見せていたことが思いだされる。しかしながら我々の脳裏に焼き付いているのは、往年のラジオやテレビで大活躍を遂げていた頃の意気軒昂な姿である。本日4月10日は永六輔の誕生日。存命ならば85歳になる。
天才的な音楽家でありプロデューサーでもあった三木鶏郎の下で研鑽を積んだ後に独立し、構成作家としての仕事は、自身も出演していた『昨日の続き』などのラジオ番組が先行した。テレビはやはり1961年4月にスタートしたNHKのヴァラエティ番組『夢であいましょう』の作・構成で携わったことが大きな転機となった。実際に番組にも出演しながら、音楽を担当したピアニストで作曲家の中村八大と組んで次々と作詞を手がけたことで、お茶の間での知名度を一気に高めることとなる。作詞家としての初仕事はそれより前、たまたま街で会った中村八大からの依頼で取り組んだ、東宝映画『青春を賭けろ』の一連の主題歌・挿入歌だった。
その中の一曲で水原弘のデビュー作となった「黒い花びら」がヒットして、第1回レコード大賞を受賞する。賞のことがまだ世間に知られておらず、スタッフから受賞の報を聞いた水原弘が「レコード大賞? なんだそりゃ?」と言ったとか言わないとか。しかしこの受賞はそれまでの慣例であったレコード会社の専属作家制度を打ち破り、新しい時代に先鞭を付ける画期的な出来事であった。ジャズ界のスターだった中村八大の曲はもちろんのこと、新進作詞家となる永の詞も、型にはまらない新鮮な文体で構成されており注目を集めた。
歌謡界の新勢力、六・八コンビに再び活躍の機会が訪れた『夢であいましょう』では、番組内のコーナー“今月のうた”でふたりの共作による楽曲が続々と生まれ、その中から「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」などが大ヒットに至った。坂本九によって歌われた「上を向いて歩こう」は国内でのヒットから2年後の63年、「SUKIYAKI」のタイトルで世界的なヒットとなって再注目を浴びる。なんと全米1位という、日本人としてはもちろん初めての快挙を達成したのだった。以降も現在に至るまでこの記録は破られていない。
梓みちよが歌った「こんにちは赤ちゃん」も63年のレコード大賞を受賞し、歌謡曲のスタンダードソングとなる。昭和天皇の御前で梓が歌を披露した話はよく知られている。ほかにも、作曲家・いずみたくと組んだ作詞の仕事では、坂本九のもうひとつの代表作となる「見上げてごらん夜の星を」や、デューク・エイセスが歌った<にほんのうた>シリーズの「いい湯だな」や「女ひとり」がある。同シリーズは永といずみらが実際に各都道府県を訪れて作られたもので、66年には日本レコード大賞の企画賞、69年には特別賞を受賞した。
『夢であいましょう』終了後は活動の主軸をラジオへと移し、作詞の仕事からはほぼ遠ざかるも、歌謡史を彩ってきた普遍的な作品群の存在から、作詞家という肩書きの印象が失せることはなかった。タレント・司会者としては、独特なイントネーションが印象深い「浅田飴」のCMや、『テレビファソラシド』の司会などで活躍し、黒柳徹子らと共に黎明期のテレビを語れる貴重な証言者のひとりでもあった。晩年の闘病期では、難病を一時克服したことから、「パーキンソン病のキーパーソン」というギャグが出色。一度聞いた話でオチが判っていても、ついまた引き込まれてしまう、紛れもなく話術の天才であった。
数ある永の作品から個人的なベストを挙げるとすれば、自らレコードを吹き込んだ「生きるものの歌」を推したい。加山雄三や中島啓江もカヴァーした壮大なバラード。とりわけ間奏の台詞で呟かれる「思い出と友達と歌があなたを支えてゆくだろう」というフレーズに、人間の本質をついた、永の優しい眼差しが感じられるのだ。つらいとき、哀しいとき、我々日本人は永六輔が作った歌たちに少なからず救われてきたのではないだろうか。
水原宏「黒い花びら」坂本九「上を向いて歩こう」梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」永六輔「生きるものの歌」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
本日4月10日は永六輔の誕生日。存命ならば85歳になる。永六輔と言えば、坂本九の「上を向いて歩こう」をはじめとした中村八大とのコンビで知られるが、作詞家としての初仕事は、たまたま街で会った中村八大からの依頼で取り組んだ、東宝映画『青春を賭けろ』の一連の主題歌・挿入歌だった。その中の一曲であった水原弘の「黒い花びら」がヒット。この曲が第1回レコード大賞の受賞曲となるのであった。text by 鈴木啓之
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