2015年09月26日
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2015年09月26日
放送作家を皮切りに、作詞家、タレント、歌手、参議院議員、映画監督、直木賞作家、東京都知事…。これだけの肩書きを持って八面六臂の活躍をした人間はそうはいまい。人を喰ったような態度でずんずんと物事を押し進め、何もかもを成功に導いたスーパーヒーロー。そのくせ根は真面目で小心者、日本橋の老舗仕出し弁当屋に生まれた育ちの良さで、どんな大胆な振る舞いの中にも、下品さは微塵もなかった。盟友・クレージー・キャッツと共にテレビの黄金時代に大活躍した昭和のスターは、天賦の才能に恵まれた大人物であった。中でも当たり役として知られるテレビドラマ『意地悪ばあさん』がスタートしたのは1967年9月26日のこと。今から48年も前のドラマだけに、まだモノクロ放送であったが、80年代にリメイクされた際にはもちろんカラー放送となっていた。
都知事時代の評価こそ今ひとつであるが、芸能界に遺した足跡は余りにも偉大である。きっかけは旧制中学時代からの親友だった椙山浩一(後の作曲家・すぎやまこういち)が、開局当時のフジテレビで演出を手がけていたことから、クレージー・キャッツのコント番組『おとなの漫画』の作家陣に加わり、その縁から日本テレビで始まったバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』のメイン作家としていよいよ頭角を現すこととなる。そのうちに画面にも登場し、クレージーの谷啓とのかけ合い「谷だァー」「青島だァー」がウケて、タレント業がメインとなってゆく。あの渥美清と交代でドラマ『泣いてたまるか』に主演したくらいだから、演技力もなかなかのものであったといえそうだ。特撮テレビ映画『ウルトラマン』に新聞記者役でゲスト出演した際にすっかり場面をさらった迷演技も印象深い。
そこから先の活躍ぶりはもはや説明不要であろう。ここでは音楽絡みの仕事を改めて追ってみたい。まず、作詞家としてのデビューは、坂本九が歌った「悲しき六十才」。レコードはまだ、坂本が所属していたダニー飯田とパラダイス・キング名義だった。60年8月に出されたこの歌は作詞家・青島幸男の処女作ばかりでなく、東芝レコードでのパラキンの1枚目、そして椙山との繋がりで青島を紹介されたディレクター・草野浩二にとっても最初のディレクション作品という、初めてづくしの一枚であった。さらに青島は「九ちゃんのズンタタッタ」の作詞・作曲を手がけた後、植木等(ハナ肇とクレージー・キャッツ)のデビュー曲「スーダラ節」(61年8月発売)でその才能を一気に開花させる。萩原哲晶作曲の独特なサウンドに乗せた、この一世一代の作品にヒットの兆しが見え始めた頃には、坂本九に「九ちゃん音頭」という、これまた傑作を書き下ろしている。作詞家としての快進撃の始まりである。「ハイそれまでョ」「ホンダラ行進曲」「だまって俺についてこい」・・・ETC.いずれもある種、思想や哲学をも感じさせる突き抜けた発想の詞は、単なるコミックソングの枠を超えており、青島にしか成し得ない仕事だった筈である。ゼネラル・プロデューサーの渡辺ブロダクション社長・渡邊晋をはじめ、作曲家・萩原哲晶、歌手・植木等という類い稀なる才人たちの奇跡的な出会いがもたらした産物であったといえるだろう。
並行して、青島は歌手デビューも果たしている。自ら作詞し、萩原が作曲したデビュー曲「青島だァー」は、完全にクレージー・サウンドに仕上がっている。その後もヒットこそしなかったものの、「そろりと参ろう」「今度こそは大丈夫」などコンスタントにシングルを発表し続け、企画・製作・原作・脚本・主演・監督をこなした自主映画『鐘』の主題歌や、主演ドラマ「意地悪ばあさんのうた」も自ら歌ってレコード化された。かつては坂本九が歌った「明日があるさ」が、CMをきっかけにウルフルズのカヴァー版がヒットした2001年には、提供作の多かった東芝と、歌手活動をしたクラウンの2社からの同時発売による、待望の『青島幸男作品集』のCDが実現。クラウン盤では、「明日があるさ」のセルフカヴァー版が新録され、その際の録音はブランクを感じさせない見事な一発OKで、かつての歌手活動の片鱗を覗かせる。しかし実はその前年の2000年にも久々のシングル「ヤシの木陰のクリスマス」をレコーディングしていたのだった。
あまり知られていない作詞仕事では、母校である早稲田大学の応援歌「早稲田健児」を78年に提供している。作曲は8期先輩になる渡邊晋の強力タッグ。ちなみに元・放送作家という共通点があり、同時期に活躍した永六輔・大橋巨泉・野坂昭如・野末陳平たちは全員早稲田出身というのがすごい。かの石原慎太郎をして“希代の才人”と言わしめた青島は2006年に惜しくも旅立ったが、今となっては、渡邊晋も、ハナ肇も、植木等も、谷啓も、萩原哲晶も、宮川泰も、みんな鬼籍に入られてしまった。天国ではさぞかし賑々しい音楽会が開かれているに違いない。都知事としての最大の爪痕は、ドラマ『踊る大捜査線』で織田裕二が自己紹介の時に度々使っていたフレーズ「都知事と同じ“青島”です」。そういえば、赤塚不二夫の漫画にもこんな決め台詞があったのを思い出した。
「国会で青島幸男が決めたのだ!」
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