2016年11月08日
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2016年11月08日
日本初の深夜のワイドショー番組『11PM』がスタートしたのは1965年11月8日のこと。それからもう半世紀という長い月日が経つ。それまで視聴率的に不毛だった深夜の時間帯を開拓した意義は大きく、東京・日本テレビと、大阪・読売テレビの交互制作という形で90年まで続く長寿番組となった。番組開始から51年、終了からも既に26年が経った今、番組が生まれた背景とともに、誰もが知るところのお馴染みのテーマ曲をはじめとする関連音楽のいくつかについて触れてみたい。
テレビ史に残る大ヒット番組といえども、スタートから順調な滑り出しではなかった。報道局制作で始まった当初は、週刊読売の編集長だった山崎英祐が司会を務める硬派な情報番組であったが視聴率が伸びず、半年でテコ入れをする事態に。制作局の担当となり、司会もジャズ評論家の小島正雄に交代して内容を柔らかくしてから人気が上昇してゆく。一週間の内、月・水・金が東京、火・木が大阪制作のローテーションとなったのは、労働組合の要求に起因するものであったらしい。名門バンド、ブルー・コーツのバンドマスターを務めた後に評論家となった小島正雄は、ダーク・ダックスやボニー・ジャックス、スリー・グレイセスといったコーラス・グループの育ての親でもあった人物。アマチュアバンドで活動していた学生時代の加山雄三に、「音楽は趣味でやるのが一番。仕事にしてしまうと楽しさが半減するよ」という的確なアドバイスをしたエピソードもある。
月・水・金の週3日の司会が負担に感じた小島は金曜日の担当を他者に委ね、そこで白羽の矢が立てられたのが大橋巨泉であった。やがて小島が68年に急逝した後は月曜も巨泉の担当となり、司会業へ専念する様になる。水曜は三木鮎郎を経て愛川欽也へ。東京の巨泉・愛川と、大阪の藤本義一という体制で長らく定着した。深夜帯ということでお色気も加味されてそれが番組全体のイメージとなってゆくが、巨泉が競馬・釣り・マージャンなど得意のレジャーを紹介し、非お色気路線だった金曜イレブンの人気は格別だったといえるだろう。ホステス役の朝丘雪路との息もピッタリで、彼女のコメディエンヌぶりが大いに発揮される場となったのである。ちなみに“ボイン”という言葉の由来は、番組中に巨泉が朝丘の豊かなバストをからかって使い出したことがきっかけで広まったと云われる。歌手・朝丘雪路がクラウン時代に出した、知る人ぞ知るセクシーな楽曲「スキャンドール」などは、『11PM』に出演したことが少なからず影響を及ぼしていそうだ。
さて、番組テーマ曲の話。ラインダンサーが躍るアニメーションが印象的なタイトルバックに流れる、洒落たスキャットのナンバーを作曲したのは、ジャズピアニスト兼作曲家で番組にも出演した三保敬太郎である。さらに俳優、レーシングドライバー、映画監督など様々な肩書きを持つ才人は高校時代にプロ・デビューを果たし、59年には前田憲男、山屋清とともに“モダンジャズ3人の会”を結成して活躍。同年に芸術祭奨励賞を受賞している。『11PM』のテーマ曲を依頼された経緯としては、番組がスタートした年に俳優として日本テレビのドラマ『ザ・レーサー』に出演していた辺りにヒントがありそう。結果的にこの起用は大正解で、番組の記憶を遡る際に欠かせないメロディとして現在も色褪せていない。最初のスキャットは東京混声合唱団の創立メンバーであった増田順平と睦美夫妻によるもので、その後長く使用されたのは、一年後に録音された岡崎広志(現・岡田愛詩)と伊集加代子(現・伊集加代)によるヴァージョンである。オープニングとエンディングでアレンジが異なり、番組で使われたオリジナルテイクが2000年にバップでCD化された際には、各20秒余の音源に加えて、1分以上に繋げられた特別編集版<ロング・エディット・ヴァージョン>が収められた。
最初の番組関連盤は、66年にビクターから出されたLPレコード『ミュージック・フォー 11P.M.』だった。演奏は猪俣猛オールスターズ。大阪版のホステスを務めていた安藤孝子のナレーションを挟みこみながら、松浦ヤスノブとムード・キングスによる「赤坂の夜は更けて」、北村英治クインテットによる「貴方と夜と音楽と」といった曲が演奏されるナイト・ムード満点の逸品。カヴァーガール風の女性を配したジャケットデザインも素晴らしい。同じ年には、元ミッチ・ミラー合唱団のボブ・マグラスが、番組で放送された「ふたりだけの二人」など4曲をコンパクト盤に収めて『11P.M.のボブ・マグラス』のタイトルでリリース。同じコロムビアからは、大阪版に出演していた小曾根実トリオのLP『11PM 小曾根実トリオ』が69年に出された。ただしこちらに収録されているテーマは三保の曲ではなく、小曾根によるオリジナル。こちらは題字を藤本義一が供し、ジャケ写に安藤孝子が登場している。元・祇園の芸妓だった安藤の人気は上々で、『異例聞(いれぶん)どすぇ』(66年)という著書もある。
番組の顔ともいえる大橋巨泉がらみでは、氏が率いて番組に出演していたバンド、ザ・サラブレッズのデビュー・シングル「お願いがあるの」(70年)が一部ではよく知られている名盤。バンドの紅一点、木元泉が歌い、巨泉とメンバーがコーラスを担当している。番組共演者の一谷伸江が作詞し、サラブレッズの要だったテナーサックスの杉原淳が作曲、そして一谷の夫・大柿隆が作曲という紛れもないイレブン・ソングだ。カップリングのボサノヴァ歌謡「どこかでだれかに」は巨泉が作詞も手がけた。そしてもう一枚、時代は下って81年、番組に出演していたガールズ3人組、あらん・どろんが80年に「ウィ!シャバダバ」のタイトルでテーマ曲をカヴァー。アレンジは吉村浩二。彼女たちは翌年も服部良一「買物ブギー」の替え歌「ばんぐみブギ」をリリースした。見かけによらず本格的なコーラスを聴かせる実力派でありました。
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