2016年01月12日
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2016年01月12日
1月12日は、GS界の異端児ザ・カーナビーツのドラム兼ボーカル、アイ高野(本名・高野元成)さんの誕生日です。1951年1月12日誕生。「好きさ好きさ好きさ」でドラムを叩きながらのボーカルが人気となり、120万枚の大ヒット! GSブームの火付け役の一つとなりました。残念ながら2006年4月1日、急性心不全のため55歳で死去されましたが、そんなアイ高野さんを一番よく知る、ザ・カーナビーツの当時リーダーでリードギター担当の越川ひろしさんに本日は執筆をお願いしました。
高野は生きていれば今日で65歳。逝ってしまってもう10年経ちました。残念でなりません。高野に初めて会ったのは彼が15歳の時、もう半世紀も前です。蒲田にドラムを叩きながら歌っている奴が居る、と噂を聞いてイタリアンレストラン「80番」の専属バンドとして歌っている「高野元成」を当時僕が所属していたバンド「フリーランサーズ」の仲間たちととりあえず見に行きました。そしてビートルズを演っていた彼の日本人離れした歌声、スティックプレイにすっかり見惚れてしまいました。とにかく奴はかっこよかった。確かお父さんがサックス奏者でその影響か抜群のリズム感の持ち主でした。かっこよくて、歌とドラムが上手くて、優しくて、礼儀正しい少年。それが僕の初対面の「高野元成」の印象です。 5歳年上の僕は、以来弟のように「高野」を見守ってきました(つもりです)。
高野が加わって「ロビンフッド(ザ・カーナビーツの前身)」は盛り上がりました。しかし、メインボーカルの高野の名前「元成」が侍っぽい、古風だ、ってことになりメンバーでアイデアを出し合ったところ、僕の考えた「アイ高野」に決まりました。最初はアイは漢字の愛でしたが、今度は女っぽくなりすぎるので、結局カタカナのアイで決定。今思えば僕はアイ高野のゴッドファーザーです(笑)。
レコードデビュー前は「ロビンフッド」というグループ名で蒲田のイタリアンレストラン「80番」を拠点に、横浜のレストランとかJAZZ喫茶でライブ活動をしていました。当時はライブ活動なんて言葉なかったけど。うちのバンドはイギリスのゾンビーズのコピーをいつもやっていました。レコードデビューの話が来た時も、最初はゾンビーズの大ヒット曲「シーズ・ノット・ゼア」をカバーすることになっていたけれど、でも「アイ・ラブ・ユー」の方が自分たちらしいって、しかも最初は英語で歌う予定だったけどレコーディングスタジオに来てくれた超人気の訳詞家、漣(さざなみ)健児さんがその場で日本語に直してくれて、「そんなに簡単でいいの?」って疑問に思ったけど、漣さんの訳詞の曲は必ずヒットするっていうジンクスもあり、何よりも日本語になったとたん何か自分たちの曲になった気がして、自らアレンジを加えてゾンビーズの原曲とはかけ離れた曲ができました。さらに高野が「お前のすべ~て!」と絶叫しながらドラムスティックで観客を指すパフォーマンスを加えたので、もう絶対ヒットするって確信しました。カバー曲で本家より売れたのは、カーナビーツだけではないでしょうか。
グループ名はロンドンのカーナビー・ストリートが由来で、当時ミュージック・ライフ編集長星加ルミ子さんが命名してくれました。星加ルミ子さんて、当時一番ビートルズに近い人だと認識していたので、とても光栄でした。でもカーナビー・ストリートに行ったこともない僕たちは、カーナビー・サウンドも、同じカーナビーサウンド・エージのアイドル、ジャガーズとのカップリング・デビューも何もかも謎でした。しかし、だからザ・カーナビーツのデビュー曲「好きさ好きさ好きさ」は120万枚を超える大ヒットになったのかもしれません。
1曲ヒットすると回りの環境も変わって、みんな「俺がやった」的に勘違いを始めます。うちらも御多分に漏れず有頂天状態になりかけましたが、カバー曲が得意な特異なバンドだったので、どこかいつも何かにすがっている感があり、そこまでの有頂天には高野も僕もなりませんでした。でもやっぱり高野が1番もてました。地方公演でも日劇ウェスタンカーニバルでもダントツでした。僕は・・・人に話せるようなことはあまりありません。恰好は、ブーツだけはみんな渋谷の「オオツカ」で当時5000円の特注だったけど、服装とかツンツルテンのズボンとかですごいダサかった。デビューシングルのジャケットは確か近所で買ってきた色違いのポロシャツ着ていたと思います。
僕がデビュー当時からいつも音楽的に意識していたのは、イントロのサウンドです。デビューが一緒のジャガーズの「君に会いたい」を初めて聴いたときはイントロのかっこよさにしびれました。テレビもかなりの勢いで普及はしていましたが、まだまだ音楽を聴くのはラジオの時代でしたから、自分たちの曲に耳を傾けさせるにはイントロのかっこよさが大切だと知り、以降すごく意識してアレンジしてきました。ファズを使ったりイギリス風にアレンジしたり、結構情熱燃やしていました。
高野の話にもどると、彼が一番好きだった曲はプロコル・ハルムの「青い影」です。意外にしっくりした曲を丁寧に歌うのが好きなのです。当時のカーナービーツにはキーボードがいなかったから、高野が「バンマス、何とかしてくれ!」と僕に詰め寄って来た時、まだ買ったばかりのWOWペダルを駆使して何とか甘ったるい音を作って演奏したことを思い出します。あの時の高野の嬉しそうな顔を忘れることが出来ません。
アイ高野は今頃天国で加瀬さんや鈴木ヒロミツや、力也さんたちとバンド組んで「青い影」歌っているのでしょうか。4月1日の命日には今年もミッキー吉野とお墓参りに行く予定です。
写真提供:ザ・カーナビーツ リーダー 越川ひろし
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