2016年10月20日
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2016年10月20日
尾崎紀世彦「また逢う日まで」(71年)と園まり「逢いたくて逢いたくて」(66年)の共通点は何か? 両曲共タイトルに「逢」という文字が使われているということ以外に、過去に別のタイトルでリリースされたものの不発に終わり、その後タイトルと歌詞を変えて別のアーティストがリメイクしたら大ヒットという共通項がある。1966年に青山ミチの通算25作目のシングルとしてリリースされた「風吹く丘で」が、歌手本人のトラブルで 店頭回収の憂き目に遭いながら、68年にヴィレッジ・シンガーズが「亜麻色の髪の乙女」のタイトルでリメイクして大ヒットしたのも、このパターン(歌詞は同じだが)。筆者はこうした作品を「出世魚楽曲」と呼んでいる。
「また逢う日まで」の“出世前”はズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」(70年)で、作詞を手がけたのは阿久悠。「ひとりの悲しみ」というタイトルどおり孤独な都会生活の寂しさを描いていた歌詞が、「また逢う日まで」では同棲生活(と思われる)の解消によってカップルが再び孤独に戻るという描写に変わっている。翌72年に話題を呼ぶ上村一夫の人気劇画『同棲時代』を予見したような時代性を盛り込んだ歌詞も出世魚に化けるカギだったのかも知れない。
一方の「逢いたくて逢いたくて」の出世前は、ザ・ピーナッツの通算31作目のシングル曲となった「手編みの靴下」で、今から54年前の今日、1962年10月20日にリリースされた。作曲は宮川泰、作詞を竹内伸光と岩谷時子が手がけている。元々、62年夏に大阪の梅田コマ劇場で上演されたザ・ピーナッツ主演ミュージカル『私と私』の挿入歌として、演出担当の竹内が書いたオリジナル詞に岩谷が手を加えて誕生した作品だった。
現在では乳児用でしか見かけなくなった過去の遺物であり、昭和3O年代末期においても決してトレンディとは言えない“手編みの靴下”をテーマに、寒い雪の夜に女性がひとり意中の男性を想いながら、部屋でせっせと靴下を編んでるという、なんとも地味で重い情景が歌われているのが災いしてか、当時「ふりむかないで」のヒットや、前年の映画『モスラ』での小美人役で脚光を浴びていたザ・ピーナッツ期待の新曲にも拘わらず、残念ながら「手編みの靴下」は不発に終わっている。
それから3年の歳月が流れた1965年末、「手編みの靴下」は岩谷時子によって全面的に歌詞が書き換えられ「逢いたくて逢いたくて」に生まれ変わる。ザ・ピーナッツの所属事務所(渡辺プロダクション)の後輩であり、「手編みの靴下」がリリースされた62年に「鍛冶屋のルンバ」でレコード・デビューした園まりによってレコーディングされ、彼女の21作目のシングル曲として、翌66年1月5日にリリースされた。中尾ミエ、伊東ゆかりと共に渡辺プロダクションの女性アイドル「スパーク三人娘」として売り出されていたものの、そのどことなく漂うキュートな“色気”故か、他の二人よりいち早く路線変更を遂げ、63年頃から徐々にアダルトなムードのオリジナル楽曲を歌っていた彼女にとって、「何も云わないで」(64年)に続く決定打となる空前の大ヒットを記録。同年6月には同名の主演映画(日活)も製作されるという、見事な出世魚楽曲に成り上がったのである。
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