2017年05月18日
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2017年05月18日
2016年の初夏、参院選が行なわれた翌日の7月11日にもたらされたのは、伝説の双子デュオとして一世を風靡したザ・ピーナッツのひとり、伊藤ユミが5月18日に亡くなっていたという訃報だった。享年75。姉の伊藤エミは2012年に既に死去しており、残念なことにザ・ピーナッツはふたりとも帰らぬ人となってしまった。いささか早過ぎる感は否めない。1975年に引退後は基本的に人前へ出ることはなかったが、彼女たちが遺した「恋のバカンス」や「ウナ・セラ・ディ東京」など多くのヒット曲群は今も日本人に愛され続けている歌謡曲の大きな財産である。伊藤ユミの一周忌に際し、テレビの黄金時代に大活躍して芸能史に輝かしい足跡を刻んだ不滅のデュオのことを想い出してみたい。
地元・名古屋のショーレストランで“伊藤シスターズ”として歌っていたところを渡辺プロダクションにスカウトされて上京したのは17歳の時。当時の社長だった渡邊晋の家に寄宿し、作曲家・宮川泰の下でレッスンを積んでデビューに備えた。渡邊晋・美佐夫妻が正に手塩にかけて育て上げたふたりは、娯楽の殿堂と呼ばれていた有楽町・日本劇場のショウ『第2回 日劇コーラス・パレード』で1959年2月に初ステージを踏む。そしてキングレコードの所属となり「可愛い花」でレコードデビューを果たしたのは同年4月のことであった。その年6月にスタートしたフジテレビ『ザ・ヒット・パレード』と、2年後に始まった日本テレビ『シャボン玉ホリデー』にレギュラー出演して全国区の人気を獲得する。どちらも渡辺プロダクションがマネージメントのみならず番組製作に携わった点も画期的だった。「情熱の花」や「悲しき16才」といったカヴァーや、「ふりむかないで」「恋のバカンス」などのオリジナルのヒットを連ねながら、歌謡界のトップスターとなっていったのは、歌もパフォーマンスも超一流だったふたりの実力はもちろんのこと、急成長を遂げていたメディア、テレビの力も大きかったといえるだろう。
テレビの黄金時代にぴったりとリンクしたのは、共演の多かった事務所の先輩、ハナ肇とクレージー・キャッツの存在も欠かせない。共にレギュラーを務めた伝説のヴァラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では歌とダンス以外にコントにも果敢に挑み、後のアイドル歌手の在り方の基盤を築いた。スポンサーの意向により幻となったが、当初は番組名を日劇のワンマンショーのタイトルにちなんで『ピーナッツ・ホリデー』とする予定もあったという。ふたりが初舞台を踏んだ縁の地・日劇では、デビュー10周年の際にも特別公演『ザ・ピーナッツ フェスティバル』が2週間に亘って開催され、クレージー・キャッツやザ・ドリフターズ、加山雄三、渡辺プロ3人娘(園まり・中尾ミエ・伊東ゆかり)、江利チエミ、坂本九ら錚々たるゲストが日替わりで訪れてふたりを祝った。この公演のサブタイトルだった“世界を駈ける可愛い花”も表しているように、ザ・ピーナッツは最も早い時期に海外進出を成功させた日本人歌手としても知られており、ヨーロッパやアメリカでショーを開催。かの『エド・サリヴァン ショー』や『ダニー・ケイ ショー』などのテレビ番組にも出演している。世界的なヒットとして知られる坂本九「上を向いて歩こう」にも劣らない程、海外盤のレコードも数多く出された。殊に現地で録音されたドイツ語ヴァージョンのものが有名だ。
当時、歌謡界のスターは銀幕でも大いに活躍した時代だった。ザ・ピーナッツも例外ではなく、たくさんの映画に出演している。初期は顔見せゲスト的な作品が多かったものの、ヒット曲がフィーチャーされたいわゆる歌謡映画として、日活で『可愛い花』(1959年)、『情熱の花』(1960年)が作られたのをはじめ、1962年には東宝で主演映画『私と私』が公開された。映画と同名の主題歌「私と私」は挿入歌の「幸福のシッポ」と共に、永六輔の作詞、中村八大の作曲によるほのぼのとした佳作であった。さらに翌1963年にも東宝で主演作品『若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん』が公開されている。しかし映画におけるザ・ピーナッツの最も印象的な役どころは、やはり特撮作品『モスラ』における小美人役であろう。男性や子供からの人気が大部分を占める怪獣映画の中で、『モスラ』が女性からの支持を少なからず得ているのは、作品全体に漂うファンタジー性やモスラの造形美もさることながら、ザ・ピーナッツが出演していたこともその理由のはず。その後、モスラが登場する「ゴジラ」シリーズにも続けて出演しており、各作品ではよく知られた「モスラの歌」のほか、「インファントの娘」「幸せを呼ぼう」など、劇中で歌を披露するシーンも随所に見られる。
1959年のデビューから1975年に引退するまでの16年間、常に第一線で活躍を続け、惜しまれつつも潔く芸能界を去ったことで伝説のデュオとなったザ・ピーナッツの功績は計り知れない。今は天上のステージで渡邊晋や宮川泰のプロデュースの下、再びコンサートが繰り広げられているに違いない。あちらのエンターテイメント界はますます活性化してゆく。
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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