2017年02月22日
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2017年02月22日
ラッツ&スター、チェッカーズ、中森明菜、荻野目洋子……80年代に数多くのヒット曲を世に送り出した作詞家、売野雅勇は1951年2月22日生まれ、今年で66歳を迎える。本日は売野雅勇の誕生日。
上智大学文学部英文学科を卒業後、広告代理店の萬年社につとめ、新聞雑誌制作部のコピーライターとして、その活動を開始した。その後東急エージェンシーインターナショナルに入社し、当時のEPICソニーから出るすべてのレコードのキャッチ・コピーを担当する。1980年5月、EPICソニーから発売されるシャネルズのファースト・アルバム『Mr.ブラック』の新聞広告に「メイクの下も、黒いアメリカ。」というキャッチ・コピーを書いたのも売野だが、このコピーはソニー社内で問題になったものの、そのまま掲載されたという。
この年の夏、EPICソニー創立メンバーの1人でもある、シャネルズのディレクター・目黒育郎から「作詞をしてみないか」と声をかけられたのが、売野が音楽制作の現場に携ることになる契機であった。目黒は同社の新人アーティスト河合夕子を担当しており、彼女が自作した曲のデモテープを聴かされ、「誰も歌っていないような歌にしたい」「なるべくキャッチーな言葉が欲しい」とリクエストを受け、売野はその場で「東京タワーがアルバム全体のイメージシンボルになるような歌詞はどうですか?」と咄嗟に閃いた思いを伝えたという。売野が書いた「テレヴィジョン・トリップ」「北京挫折街」は彼女のファースト・アルバム『リトル・トウキョウ』に収録される。河合夕子の所属するホリプロ側のディレクター鈴木幹治(元モップスのドラマー)にも気に入られ、鈴木からの要望で、河合のデビューシングルのタイトルを「東京チークガール」と決め、作詞を一部手直ししたのも売野であった。
その後、やはり目黒からシャネルズのアルバムに作詞を依頼され、「星屑のダンス・ホール」「スマイル・フォー・ミー」の2曲を手がける。こちらは81年3月21日リリースのセカンド・アルバム『Heart&Soul』に収録されたが、河合夕子のデビューが同年5月となったため、シャネルズのほうが先に世に出ることになった。この時は麻生麗二名義で書かれているが、このペンネームはブライアン・フェリーのイメージを感じに翻訳したものだそうで、売野が敬愛する今野雄二にもオマージュを捧げているのだそう。ちなみにこの時、シャネルズの楽曲を作曲していた井上大輔は麻生麗二の詞を気に入り、1ヶ月近くも探し回ったという逸話がある。その後、売野と井上は、シャネルズから改名したラッツ&スターの「め組のひと」や郷ひろみ「2億4千万の瞳」、井上自身が歌った『機動戦士ガンダム』の主題歌「めぐり逢い」など数多くのヒットを飛ばしている。
一方、渡辺音楽出版の木崎賢治ディレクターと組んで、伊藤銀次や大澤誉志幸への作詞提供を続けていた売野だが、木崎が担当する沢田研二への作詞を依頼され、「ロリータ」という詞を書いたがボツになる。この詞はやがて形を変え、82年に中森明菜のシングル「少女A」として生まれ変わった。
売野はこの「少女A」で、作曲を手がけた芹澤廣明と出会うことになるが、このコンビによって放たれたのが、チェッカーズの一連のヒット曲である。ディレクターの萩原暁からは「80年代のオールディーズ、サウンドはポリス」というグループのコンセプトを伝えられており、売野はアメリカン・グラフィティをイメージした詞を書き、この「涙のリクエスト」が2作目のシングルとしてリリースされ大ヒットを記録、チェッカーズは一大ブームを巻き起こす。
4作目「星屑のステージ」はドラマチックな歌詞に、という萩原からの要望で、具体的には「ちあきなおみの『喝采』のような私小説的なリアルストーリーを」とのことであった。当初はアルバムの1曲として依頼されたのだそうである。そしてこれに続く勝負曲である第5作目は、ビートの強いアップテンポの楽曲に対し、歌い出しの1行の突き刺さり方に細心の注意を払って書いたという。作曲の芹澤からは「歌い出しの1行に女性の名前を入れて欲しい」とリクエストがあり、幾度と無く書き直しに応じた結果、密度の濃い詞となった「ジュリアに傷心」は85年度のオリコン・チャート年間1位を獲得する、チェッカーズの代表作となった。
売野の詞には独特のルビが振られることが多い。一例をあげるなら「催眠(わな)」(「禁区」中森明菜)、「反射(はな)つ」(「エスカレーション」河合奈保子)などで、このあたりが作詞家・売野雅勇の特徴ともいえるが、作詞家自身がどういう意図でこの言葉を選んだのか、が垣間見えるようで面白い。またチェッカーズや明菜作品のほか、荻野目洋子の「六本木純情派」「さよならの果実たち」など、80年代の都会で遊ぶ若者群像、その中でふとみせる切なさや淋しさを活写するのが売野作品の特性と呼べるだろう。矢沢永吉「Somebody’s Night」では大人の男の色気を存分に放つ詞を提供するなどアダルトで都会的な作風も多いが、自身が代表作だと語っているのは、坂本龍一と組んで中谷美紀に提供した一連の作品で、95年のアルバム『食物連鎖』や97年のシングル「砂の果実」などである。「砂の果実」に関しては、森田童子の「僕たちの失敗」のようなイメージで、と坂本から要望があり、太宰治の『二十世紀旗手 』で有名な「生まれてすみません」を念頭に、絶望感に満ちた刺激的な詞が生まれた。作詞は本能で書くということを、この「砂の果実」の制作プロセスで教わったと、後に述懐している。
2016年には作詞家生活35周年を記念して、4枚組CD-BOX『天国より野蛮』が発売され、同年8月25日には中野サンプラザで記念ライブも開催、鈴木雅之、藤井フミヤ、荻野目洋子らゆかりのアーティストが多数参加する華やかな催しとなった。
参考文献:売野雅勇『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)
≪著者略歴≫
馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。
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